牡蠣の燻製を大量に作るライフハック
牡蠣の燻製がおいしい。
本当においしいのだ。
寒いのが本当に苦手で、早く春になってほしいが、牡蠣の燻製が作れなくなるのは嫌なので、もうしばらく冬でいてくれてもいい。そう思うくらい牡蠣の燻製がおいしい。
炬燵に入って作った牡蠣の燻製をパクパクしながらウイスキーを飲み、アマゾンプライムで『ぼくらベアベアーズ』なんかを観ていると、それだけで世界から無限に愛されているような気分になってしまうくらいうまい。ボンクラ感はすごいが。
牡蠣の燻製は、オリーブオイルに浸して冷蔵庫にいれておけば軽く1か月くらいはもつので、大量に作っておけば保存食としても便利。
ウイスキーをはじめとしてワインや日本酒なんかにも合うおつまみになるし、バゲットに載せればそれだけでごちそうになる。茹でたパスタに絡めるなどして料理に使ってもいい。パルメザンチーズを振りかけるとまた濃厚な味わいになる。
そんな牡蠣の燻製だが、意外と作るのは簡単。
牡蠣を茹でて下味をつけてササッと燻すだけ。
時間はかかるけれど、待ってるだけの時間が長いので、休日に本でも読みながらのんびり作れば体感の時間はそれほどでもない。
ほとんどこれを参考にして作っているだけなんだけども。
ただ、動画ではおそらく温燻(30~80度で燻製)しているけど、熱燻(80度以上で燻製)でも問題なくおいしかった。熱燻のほうが手軽なので、燻製に慣れていないうちは無理に温燻にしなくてもいいと思う。
作り方はこんな感じ。
○材料
・牡蠣 1キログラムとかそのくらい
(スーパーに売っているものだと「生食用」よりも「加熱用」のほうが肉厚で良いと思う)
・ソミュール液
水 500cc
塩 大さじ3
砂糖 大さじ3
ローリエ 2枚
セージ 小さじ半分
白コショウ 小さじ1
動画ではサドンデスソースをちょっと入れてピリ辛にしていた。
・まずソミュール液の材料を混ぜて小鍋で沸騰させ、ひと煮立ちしたらよく冷やしておく。
三温糖を使っているので茶色っぽいが、上白糖ならもっと透明だと思う。
・牡蠣は身が崩れないよう注意しながら、ぬめりが取れるまで丁寧に洗い、5~6分ほど茹でる。
熱燻にする場合はあとで十分に加熱できるので、ほとんど茹でなくてもいいと思う。茹でるすぎると身が縮んじゃうので。
動画では牡蠣の茹で汁を捨てていたが、それはあまりに勿体ないと思う。残った汁もおいしくて栄養価が高い。茹で汁の灰汁をとって出汁・酒・みりん・醤油あたりで適当に味付けをして、ネギ・生姜・大根・シイタケあたりの具材を入れて煮てやるだけで幸せになれる。味付けと入れる具材はなんでもいいが、牡蠣の臭みが気になる場合は酒と生姜はあったほうがいいと思う。
・牡蠣の水気を切り、冷ましておいたソミュール液に2時間漬ける。
・水気をよくふき取り、風にあてて乾燥させる(風乾)。
屋外で乾かすのが難しい場合は、扇風機をあてると早く乾く。ないならドライヤーでもいい。
乾かすのが不十分だと仕上がりが酸っぱくなっちゃうので注意。
・なるべく低い温度で燻煙する。
燻煙時間は温燻なら1時間、熱燻なら30分くらいだろうか。
使うチップはサクラかヒッコリーあたりが無難だと思うが、ウイスキーオークを使っても絶対おいしいと思う(まだ試してないけど)。
温燻にするならスモークウッドを使うのが便利。
これは中華鍋で熱燻しているところ
・オリーブオイルにドボン。
3日経ったくらいからうまい。優勝。
左が温燻した牡蠣で、右の茶色っぽいのが熱燻した牡蠣。
温燻のほうはしっとりしていて味・香りがまろやか。熱燻のほうはやや香りが強め。
今回温燻したほうはもう少し燻煙時間を長くしたほうが良かったかもしれない。
大人になること
誕生日だ。
20歳を越えてから誕生日はあまり嬉しいものではなくなってきた。
自分の前に広がる可能性が、部分的には、少しずつ狭くなっているのを感じているのかもしれない。
大正時代くらいまでは数え年が一般的だったから、正月と一緒に歳が増えるのを祝うことができたのだろうけど、満年齢での誕生日を祝う理由は、やや薄い。
ちなみに、僕が大好きな山下和美の漫画『天才 柳沢教授の生活』には、60歳前後の大学教授2人が「なぜ人は誕生日を祝うのか」について延々議論するだけの回がある。最高。
小学生のころは、中学生がものすごく大人に見えていたはず。
誕生日になると、そういう懐かしい感覚を思い出す。
もちろん、今は中学生がまだまだ子供だということを知っているし、中学生のころの自分は今よりずっと幼かった。
でも、20歳を過ぎて中学生の頃よりはマシになったとはいえ、自分が大人になれているのかは疑問だ。
20歳を過ぎたというのに、自分が大人になったという実感がほとんどわかない。
そういうわけで、「いかにして大人になるか」ということを、ちょくちょく考えるようになった。
今更になって、大人はこうだとか、子供はこうだとか考えているのはすごく恥ずかしいのだけれど。
20歳になれば、自然と大人になるのかと、何となくそんな風にずっと思っていたけど、全然そんなことはなくて、いまだに子供のままの自分に愕然とする。
今まで成熟だと思っていたものは、本当の成熟じゃなかった。
年齢を重ねて「こういうときにはこうする」といったテンプレートのデータベースは昔より充実してきたかもしれないけど、それは本当の成熟じゃない。
自分は、まだ全然成熟できていない。
そんな中で読んだ内田樹の文章はおもしろかった。
つまり、「成熟した市民」というのは「飢餓ベース」「貧窮ベース」で、「子ども」は「安全ベース」「飽食ベース」であり、資本主義社会は大量消費をする「子ども」を要請し、日本は「子ども」ばかりになったというのだ。
「「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである」という部分はよくわからないし、他にもツッコミどころはあるだろうが、次の部分はわかる気がした。
「子ども」たちが「子ども」であるのは、実は長い歳月のあいだ「子ども」しか見たことがなく、成熟のロールモデルを知らないからである。
申し訳ないが、親も近所のおじさんおばさんも学校の先生もバイト先の店長もテレビに出てきてしゃべる人たちも、みんな「子ども」だったのである。
「子ども」以外見たことがない人がどうして「大人」になれよう。
この部分を読むまで、自分をとりまく社会自体が未成熟な可能性を考えていなかった。
「大人」になろうとしても、周りの大人たちが「大人」じゃなければ「大人」にはなれないのは当たり前だ。
最近、大人だと思っていた人や世界が、ひどく子供っぽい、未成熟なものだった例をいくつも見たり聞いたり読んだりしたので、なおさら腑に落ちるところがあった。
とはいえ、「周りの人たちはもっと成熟しろ」みたく考えるのは、それこそ啓蒙みたいなレベルから抜け出せないようにも思う。
もし仮に周りの人たちが「子ども」ばかりなら、その中で身を処していかなきゃならないし、その中で自分は何とか「大人」になる必要があるのだろう。
そんなことを考えながら『天才 柳沢教授の生活』を読み返して、誕生日の夜を過ごしている。
柳沢教授は、僕にとっての中学時代からずっと「成熟のロールモデル」だったと気が付いた。
『白馬のお嫁さん』『消滅世界』――男性の妊娠
『白馬のお嫁さん』(庄司創)の最終三巻を読んだ。
良いSFラブコメだった。
庄司創作品ということもあって頭でっかちなのだけれど、『勇者ヴォグ・ランバ』あたりに比べると今作は良い感じに肩の力が抜けている。
ただ、あっという間に終わってしまった感じはあって、「産む男」の設定でもっといろいろ描いてほしかったなあという気持ちもある。
『白馬のお嫁さん』の魅力はユートピア的な近未来を描きながらも、問題意識と批評性がしっかりとその根幹になっているところだろう。
この点は、これも最近読んだ、男性の妊娠を露悪的・ディストピア的に描いた村田紗耶香の『消滅世界』とは好対照だ。
『白馬のお嫁さん』と『消滅世界』。両者の問題意識はかなり違うところにありながら、しかし、どちらも作中で「男性の妊娠」が「希望」となっているのがおもしろい。
『白馬のお嫁さん』では男性のバラエティとして、『消滅世界』では共同体全体で子供を産み育てる合理性のために。
描かれ方は違うけれど、読んでいると本当に男性の妊娠は希望なんじゃないかとも思えてくる。
少なくとも、今目指されている方向での男女平等を成り立たせる一番てっとり早い方法なんじゃないか。
夏コミのお知らせと、星雲賞コミック部門半分くらいレビュー
まずは、僕が所属している京大SF・幻想文学研究会が夏コミ(C90)で頒布するやつの宣伝をば。
C90のお品書きです。
— 京大SF研@三日目東ヤ05a (@KUSFA) 2016年8月8日
新刊『WORKBOOK106 特集:SFと漫画』(星雲賞コミック部門全レビューなど)|¥400
既刊『WORKBOOK105+Asterisme』(レムコレクションレビュー&三題噺競作2015)¥300 pic.twitter.com/zgBj8y0WOL
当サークルは今年度も夏コミに出展します。
スペースは3日目(8/14)の東ヤ05a、サークル名は「京都大学SF・幻想文学研究会」です。会場では新刊に加え既刊の販売も予定しています。
2016年夏コミ(C90)情報: 京大SF・幻想文学研究会ブログ
今回は「SFとマンガ」というテーマで、「星雲賞コミック部門全レビュー」「星雲賞未受賞作レビュー」「すこし・ふしぎとSF」などの特集を組みました。
僕は星雲賞受賞作として『童夢』(大友克洋)や『三文未来の家庭訪問』(庄司創)などのレビューを担当しました。
手前味噌ではありますが、良いレビューが集まったクオリティの高い会誌となっていると思います。
コミケへお立ち寄りの際はぜひともよろしくお願いいたします。
*****
さて、ここからが記事の内容なのだが、
個人的に、勝手に、京大SF研とは何の関係もなしに、自分が今まで読んだ星雲賞コミック部門作品のごく短い(雑な)レビューを書いていこうと思う。
星雲賞コミック部門は創設された第九回(1978)の『地球へ…』から第四十七回(2016)の『シドニアの騎士』まで40作がノミネートされている。個人的に読んだことがあるのは半分ちょっとくらい。
※この内容は京大SF・幻想文学研究会やその会誌とは何の関係のない、個人の勝手な感想です。
※SF研で頒布する会誌のレビューは、これの三億倍くらいキチンとしたものなので安心してください。
※おすすめ度をつけてみましたが、あくまで他人に勧めやすいかの目安であって、作品の個人的な評価とは関係ありません。
そんな感じで
○第九回『地球(テラ)へ…』(竹宮惠子)
おすすめ度:☆☆☆☆☆
名作。SFマンガの中でオールタイムベスト級に好き。読み返すたびに深く心に染み入る。壮大なスケールでSF的なテーマ(コンピュータによる管理や、ポストヒューマンなど)に迫っているが、読んでいるうちにグイグイ引き込まれるので、あまりSFを読んだことのない人にも勧めやすい。
おすすめ度:☆☆
おもいろいし、個人的に好きなんだけれど、パロディに溢れすぎていて、あまり勧めにくい。SFパロディマンガとして、良くも悪くも以降の星雲賞コミック部門の受賞傾向に影響を与えていると思う。電気羊の話が好き。
おすすめ度:☆☆☆☆
テーマとしては古典的でありがちなんだけど、萩尾望都の手にかかるとほとんど古さを感じなくなる。ラストがすごく好き。(個人的には萩尾作品はSFより幻想寄りの作品のほうが好きなんだけれども)
おすすめ度:☆☆☆☆☆
戦争を戯画化した強烈な漫画。戯画を大友の絵でやるのだから破壊力がある。戦争が希薄になってきた時代に読みたい一作。おすすめです。
SF研の会誌でレビューを担当した作品。詳しくは会誌を手に取っていただきたく、何卒、何卒。
おすすめ度:☆☆☆
濃密。読みにくいので人に勧めにくくはあるが、その読みにくさも密度の濃さゆえだろう。ストーリーを楽しむこともできるし、『アップルシードデータブック』を読んで、その世界設定から妄想を膨らませて遊ぶのも楽しい。黒田硫黄がスピンオフ作品を描きたくなるのにも納得。
おすすめ度:☆☆
好きな作品ではあるのだけど、現代の読者が読んで素直におもしろいと思うかはビミョウだと思う。何でもあり感なら『らんま1/2』のほうが上のような気もするし、少なくとも高橋留美子作品の入門ではないと思う。
○第十九回『究極超人あ~る』(ゆうきまさみ)
おすすめ度:☆☆☆☆
変な部活動ものの元祖にして金字塔。京大写真部の部室にもひっそりと安置されている。写真部に所属している身としては、途中1話だけ挟まれる、白黒銀塩写真についての偏った回がたまらなく好き。「世はなべて3分の1」「ピーカン不許可」「頭上の空白は敵だ」。これが星雲賞を受賞しているのはちょっと謎だが、それだけ当時のオタクに受けたということなのだろう。
究極超人あ~る (1) (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)
- 作者: ゆうきまさみ
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1991/09
- メディア: コミック
- クリック: 10回
- この商品を含むブログ (39件) を見る
おすすめ度:☆☆
主人公の他者との交流・成長を丁寧に描いた作品。ただ、異世界混線ファンタジー設定なのだが、異世界を掘り下げられていないような気がして、SF作品である必要があったかどうかやや疑問。
会誌レビュー担当作。会誌では書けなかった感想をそのうちこのブログでも書いてみたいなあと思っている。
○第二十五回『DAI-HONYA』(とり・みき)
おすすめ度:☆☆☆
ディズトピアものでギャグは意外と珍しいような気がする。巨大資本による書籍市場の独占はなかなか現代的なテーマ。見かけはギャグでも描いてるものは真剣なイメージ。
おすすめ度:☆☆☆☆☆
歴史に残る名作。今さら僕ごときがお勧めするまでもないと思う。読んで。
おすすめ度:☆☆☆☆☆
藤田和日郎は、連載の中で、後付け設定や少し無理がある展開を纏めていき、最終的には少年マンガの理想形のような大団円まで持っていってしまう、そういう力強さをもった作家だと思う。その力技が最もうまく発揮されたのは『からくりサーカス』だと思うけど、『うしおととら』も勝るとも劣らない。
○第二十九回『SF大将』(とり・みき)
おすすめ度:☆
パロディマンガ。SFマニア向け。
おすすめ度:☆☆☆☆☆
最高。アニメ版も大好きだけど、ストーリー自体はマンガ版の方が好き。
おすすめ度:☆☆☆☆
マイナーSFマンガの当たり作。SF設定が独創的でおもしろく、キャラクターの魅力でぐいぐい進むストーリーが心地よい。この作品が埋もれてしまうのは、あまりにもったいない。
○第三十五回『彼方から』(ひかわきょうこ)
おすすめ度:☆☆
異世界転生もの。正直あまりおもしろいと思わなかったが、それは僕が異世界転生ものがあまり好きじゃないからかもしれない。主人公が爆弾テロに巻き込まれて異世界へ飛ばされる設定は白石晃士の『オカルト』を彷彿とさせる。
○第三十九回『20世紀少年』『21世紀少年』(浦沢直樹・長崎尚志)
おすすめ度:☆☆☆
個人的に浦沢直樹のマンガが苦手なので、評価しにくい。子供の空想が現実を覆っていく展開は好きなはずなんだが、サスペンス部分が今一つ好きになれない。よく浦沢直樹のマンガは「顔マンガ」だと言われるが、顔・表情以外の要素で魅せるマンガの方が好きなのかも。「ともだち」や巨大ロボットの造形は好き。
おすすめ度:☆☆☆☆☆
大傑作。ラストまで全くダレず、各キャラごとに見せ場を作っているのがすごい。ただ、この作品を星雲賞にノミネートすることもなかったんじゃないの、とも思う。大ヒットしてるし。
レビュー担当作。
おすすめ度:☆☆☆☆
SFガジェットが楽しいラブコメ。SFラブコメもののなかでも特にバラエティに富んだ作品で、作者の引き出しの広さに驚かされる。設定が『ひとりぼっちの地球侵略』にちょっとだけ似ているが、連載開始はこちらの方が10年以上早い。
○第四十六回『もやしもん』(石川将雅之)
おすすめ度:☆☆
う~ん。この作品が星雲賞を取っているのはよくわからない。良く言われるように、主人公の「細菌が目視できる」設定があまり活かせていないのは本当だし、後半になるにつれ雑学マンガの側面が大きくなっていって、物語としての魅力は削がれていってしまったように思う。オリゼーかわいい。
そんなところです。
森達也『FAKE』感想
白か黒かという二項対立的な発想が嫌いだから、この映画をつくったわけです。だから結果として、「白と黒」が「黒と白」になりましたじゃ意味がない。(中略)
だからそれを見て、この映画が全部フェイクだったのかと思う人がいてもいいんだけど、少なくとも「白と黒」でも「黒と白」でもない、グレーの部分に誘導することができたんじゃないかと思います。
ドキュメンタリー映画『FAKE』監督・森達也さんインタビュー|通販生活®
京都シネマで『FAKE』を観てきた。
ずっと観たかったのだが、上映館が少ないこともあり公開終了ギリギリになってしまった。
劇場で観ることができて本当に良かった。
というのも、このドキュメンタリーは劇場で公開されてはじめて完成するような、そういう側面を持っているように思うからだ。
もうほとんど上映は終わりかけているけれど、できたら劇場に足を運んで観たほうが、ずっと楽しめるように思う。
劇場情報|映画『FAKE』公式サイト|監督:森達也/出演:佐村河内守
そういうわけで、ここでも極力ネタバレは避けようと思う。
この映画を「森達也の15年ぶりの新作だから」という理由で観に行く人はどれくらいいるのだろうか。
森達也の名前よりも、佐村河内守の名前のほうが、一般にははるかに広く知れ渡っているだろう。やはり佐村河内の騒動に関心があった人が大半なのだろうか。
僕は、佐村河内守の名前は騒動が起こるまで全く知らなかったし、今もその騒動やその顛末についてはほとんど関心がない。
それでも、森達也が佐村河内守を題材にしたドキュメンタリーを撮っているというニュースを聞いたとき、この映画は観なくちゃな、と思った。
なぜか。
『A』、『A2』も、オウム真理教の信者を被写体にしながらも、常に撮ろうとしたのはその周囲の社会だった。オウム真理教という媒介を通して見えてくる、現代社会の側面が映された映画だった。
現代社会は多様性を認めにくくなっていないだろうか。やさしさを、冷静さを失っていないだろうか。人の苦しみに鈍感になっていないだろうか。一つの観方に満足してはいないだろうか。
それが、森達也が映像作品・著作を通じて繰り返し伝えてきたメッセージだった。
啓蒙的なところにはちょっと辟易する部分もあるし、政治的に同調できない部分もあるけれど、このメッセージに共感しているか、『FAKE』も観ようと思った。
だから、本作『FAKE』も、佐村河内守は媒介にすぎず、森達也が本当に撮りたいのは社会の方なんだろうと思っていた。
つまり、
佐村河内守を悪(というかいくらでも虐めて良い対象)と決めつけて、社会は思考停止に陥っていないだろうか、
いくらでも虐めていい対象として、相手が生の人間であることを忘れていないだろうか、
小保方晴子がそう、野々村議員がそう、ベッキーがそう、ショーンKがそう、舛添元都知事がそう、虐めて良い対象を作って私刑を加える傾向がどんどん強まっているんじゃないか、
というのが森達也が本作を通じて伝えたいことなんだろうな、と観るまではそう思っていた。
この予想は、良い意味でも悪い意味でも裏切られることになった。
社会サイドが画面にほとんど映っていないのだ。
どうしてかと言うと、佐村河内守が家に引きこもっていて全く外へ出ようとしないからなのだけど。
その意味では、『A2』の方がドキュメンタリーとしての完成度は高いように思う。
しかし、劇場で実際に観てみて、社会は映っていないけれども、森達也が扱おうとしていたものが眼前にあることに気が付いた。
ネット上の感想にも、こんなものがあった。
また、映画を観る場所も、DVDが出るまで待つ手もあるのだが、劇場で観て、本当に良かったなと思った。この映画の最中、「笑い」が観客から起きる。ただ、その笑いはコメディシーンの笑いとは、全く違うものだ。自分の罪悪感を晴らすかのような、わざとらしい笑いが起こっていた。この劇場体験は、私は初めてだった。
映画「FAKE」(森達也監督)の感想・レビュー/「ネット炎上」について - 会社員のための雑学ハック
そう。こうした劇場の反応こそが、この映画を劇場で観ることをおすすめする理由だ。
森達也はこういう反応を逆算してこのドキュメンタリーに着手したのだろうか。もしそうなら、まぎれもない天才だと思う。
『シン・ゴジラ』感想
『シン・ゴジラ』を初日に観てきた。
すごく良かった……。
まだ観ていない人はできるだけ早く観ることをおすすめします。
ネタバレされたくなければ、ってんじゃなくて、なんだろう。この映画の手の切れるような鮮やかさをあじわうには——ほとばしる果汁を味わうには、出きるだけ早く劇場に駆けつけよ、と直感が叫んでいる。言説の指紋でガラスが曇る前に。
— 飛浩隆 (@Anna_Kaski) 2016年7月29日
正直、そこまで期待していなかったので、ガツンと頭をやられた気分。
同時に観ていてとても疲れる映画でもあった。
観るにあたって気になっていたのは二点。
①ハリウッド版『GODZILLA』とどう差別化したのか
もちろん、ハリウッド版は特撮の観点からしたら良くないところも多かったはずだし、そこはいくらでも改善できるはずではあるのだけれど、そこを改善して喜べるのは一部の特撮オタクだけなんじゃないかとも思っていた。
特にフルCGで撮るとなると、どうしても予算の差が出てしまいがちになると思います。キャストの数がものすごく多いという前情報もあって、ゴジラのCGに回す予算がどれだけあるのかは不安でした。
ストーリーにしても、普通に作ったのではハリウッド映画の強力なテンプレートに力負けしてしまうんじゃないかという懸念もあった。
そのあたりをどう対抗した作品になっているのかは、怖くもあったけど、同時にものすごく楽しみだった。
②放射線の扱いをどうするのか
ゴジラはやっぱり放射能怪獣なわけで、そのゴジラを3.11の後に登場させることは、どうしても作り手・観客ともに原発事故を意識せざるを得ないはず。その処理をどうしているのか気になっていた。
結論から言うと、①ハリウッド版よりもずっと良いと思ったし、②相当に3.11を意識した作品だった。
以下めっちゃネタバレします。
続きを読む『帰ってきたヒトラー』(ネタバレあり)
『帰ってきたヒトラー』を観て泣いてしまった理由。
それは言ってしまえば単純なのだけれど、たぶん、知らないうちにザヴァツキに感情移入していたんだろうと思う。
ザヴァツキは最初、ヒトラーのコメディアンとしての才能に惚れ込み、思想的にも同調するような、ヒトラーに親しみを持っているようなところがあった。
それが後半になって、ユダヤ人に対して差別的な発言をするところからヒトラーの異様さを垣間見ることになる。
そして、ザヴァツキは、ヒトラーが最初に現れた場所が総統地下壕跡地だったことに気付き、本物のヒトラーが復活していることを知る。その結果、「あいつは本物のヒトラーだ」と主張して、精神病院に入れられることになる。
この展開は原作とは大きく異なる。
小説ではザブァツキはクレマイヤー嬢と結婚して、ある程度はハッピーな終わり方になっていた。
この、親しみをもっていた人物が異様であった悲しみと、世の中の大きな流れに一人取り残されてしまった孤独に、僕は同調していたのだろう。
観客はザブァツキと同じ心の動きになるよう仕組まれている。
観客の目にもヒトラーは最初、魅力的な人物に映るが、ザヴァツキとともにヒトラーの異様な面を垣間見ることになる。
観客とザヴァツキだけが、本物のヒトラーが蘇ったことを知っている。
そして観客である私たちはザヴァツキと同じように、画面の中のドイツの熱狂とうねりを、ただ観ていることしかできない。
そういう意味で、ザヴァツキは、映画を観ている人ととても近いポジションにいるのだ。
僕が強く感情移入してしまったのも、こう考えればある程度納得がいく。
そして、この「大きな流れに対して、ただ傍観することしかできない立場」というのが、今現在の我々が置かれている立場と重なるような気がして、どうしようもなく泣けてきてしまったのだと思う。
この映画を通じて気づかされるのは、ヒトラーは――そしてナチズムは――外的な力によって挫折させられたのであって、内部からイデオロギー的に挫折したわけではない、という単純な事実だ。
実際に、生前のヒトラーが人気者だったのは間違いない。
ヒトラーを選んだのは、当時最も民主的な憲法を持っていたワイマール憲法下のドイツだった。
第一次大戦敗北の賠償金で、世界一のハイパーインフレをおこして失業率40パーセントだった国を、数年間でほとんど完全雇用を達成するまでに回復させたのも、ヒトラー政権だった。
そしてできたのがアウトバーン。
ヒトラー政権下でドイツ国民の生活が豊かになったのは、まず間違いない。
ただし、それはユダヤ人やポーランド人からの搾取があって成り立っていたことも、ほぼ間違いないだろう。
最近、戦後のリベラルの責任というのをしばしば考える。
というのも、戦後のリベラルは、全体主義の崩壊を、自分たちの力・思想によるものだと錯覚してきたところがあったんじゃないかと思うのだ。
外からの力で崩壊したものを、自分たちが思想的に殺したと勘違いしたことはなかっただろうか。戦前を、思想的に清算する試みが不十分だったんじゃないだろうか。現在の世界の状況を考えると、とくにそう思う。
そういうことを考えると、小説版でヒトラーが掲げたスローガン「悪いことばかりじゃなかった」を読むと、ぞっとするものがある。「悪いことばかりじゃなかった」のは本当だから。
なんかちょっと最後は政治っぽい話になっちゃったので次回はレトルトカレーについてみたいなことを書きます。