トマト倉庫八丁目

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雑記10:自己肯定感は生きていくために必要なんだ

 

 アイドルの水野しずが前に

「自己肯定感は生きていくために必要なんだ! 自己肯定感は生きていくために必要なんだ! 自己肯定感は生きていくために必要なんだ!」

と叫び続ける動画をTwitterに上げてた気がするのだが、今探したら見つからなかった。

 消してしまったのだろうか。元気の出る動画だったのに。

 

 

 昨日のブログ「Vtuberとラノベ」にかなり自分の文章を褒めてくれるコメントがあり、すごく嬉しかった。

 あいにくコメントは承認制にしており、好意的なコメントのあとに「ごめん消しといて」的なコメントが付いていたので公開はしなかったが、とてもありがたいコメントだった。

 励みになります。

 

 そういうこともあって、コメントの承認制設定を取り消した。

 「ちょっとしたキッカケで炎上したらどうしよう」という恐れがあったのだが、こんな弱小ブログが炎上する可能性はかなり低いし、炎上したところでそれはそれでアクセス数が稼げて儲けものかもしれない。

 ブログは、一応スターを送る機能はあるけれど、Twitterの「いいね」に代わるようなものがないので、虚無へ文章を投下しているような気持ちになることもある。だから、コメントとか貰える嬉しいです。

 やはりこのブログは承認欲求の塊でもあるので。

 

 

 

 自己肯定感は生きていくために必要だ。

 就活で初めて「お祈りメール」を貰ったとき、この就活の最低限の目標は「なにがあっても生きること」に決めた。

 就活で鬱になる人の数は計り知れない。7人に1人はうつになるという話もある。

 大学生で自殺する人は年間約500人だが、そのうちの数十人は明らかに就職の失敗を苦に自殺しているそうだ。

 就活は毎年何万人もの人を苦しめ、何十人もの人を死に追いやっている。

 

 自己肯定感が極限まですり減ると、人は死んでしまうこともある。

 

 深夜だからしみッタレた文章を書くけれど、自分は周りの人のおかげで何とか自分を肯定することで生きていられるのだなと実感する。

 自分のことを評価してくれる人が何人もいるというのは、本当に幸福なことなんだろうなと思う。前回の記事にもらったコメントもそうだ。

 自分を評価してくれる人がいれば、また頑張ってみようと思える。

雑記09:Vtuberとラノベ

 2つのブームの類似

 就活のせいであんまりTwitterを見ないようにしているので、ブログ更新が捗る捗る。

 

 で、ヴァーチャルYouTuberの話。

 「こいつヴァーチャルYouTuberの話ばっかりしてんな」と思われそうだが、これだけ盛り上がっていると、やはり書きたいことが沢山でてくる。

 

 やはり、今までYouTubeをあまり観ていなかったオタク・サブカル層が、バーチャルYouTuberの流行で一気に引き込まれていったのは見逃せない動きだろうと思う。

 

 さらに、この流行にゼニの臭いを嗅ぎつけて、企業も大量に参入してきた。

 ブームはまだしばらくは続きそうだ。

 自分も就活なんかやってないで、VTuberが勉強を教えるヴァーチャル学習塾とかを起業した方がいいかもしれない。*1

 

 そんなヴァーチャルYouTuberブームだが、その面白さの一側面として、あらゆる才能が集まってきているところがあるんじゃないかと思う。

 つまり、今までは活動の場が別であった人たち、あるいは活動の場がなかった人たちが、流行に乗って同じプラットフォームに大挙して押し寄せている、そういう部分が面白いと感じるのだ。

 モデリングをする人、絵を描く人、楽曲を作る人、ゲームを製作する人、劇を演じる人、歌を唄う人、などなど、多くの人がヴァーチャルYouTuberとして活動している。

 そうした多種多様な才能が、一同に会している面白さだ。

 もともと、ヴァーチャルYouTuberは「ヴァーチャル空間上にいる架空のキャラクター」であり、ほとんどアニメキャラに近い存在だったはずだ。キズナアイや電脳少女シロのように。

 それが、のじゃろりおじさんのブレイクスルーによって、「人間の前にキャラクターを一枚噛ませていればヴァーチャルYouTuber」という状況になっていった。

 生身の人間を出さなければヴァーチャルYouTuber、という状況である。

 それどころか、その定義すら今やかなりあやふやだ。ヴァーチャル空間どころか、現実世界が映っているものもある。というか「現実系ヴァーチャルYouTuber」なるものも現れてきた。もうメチャクチャである。

 

 今のありとあらゆる才能が「ヴァーチャル」な存在としてYouTubeに参入している状況は、ヴァーチャルYouTuberの持つ「ヴァーチャル」の概念が、かなり柔軟なものだったからに他ならないだろう。

 これは全盛期のラノベブームに似ているように思うのだ。

 つまり、便利な概念のもとにジャンル横断的な才能が集まっている、という類似点。

 

  ライトノベルが流行したときも、ライトノベルというプラットフォームにあらゆる才能の書き手が押し寄せた。それぞれが書いたものは、ファンタジーや恋愛やホラーやミステリやSFだったりしたわけだが、その全てが「ライトノベル」の括りに密集していたのだ。

 それはやはり、ライトノベルの持つ「ライト」の概念が柔軟だったからだろう。

 当時のライトノベル作家たちの作品に、ライトノベルレーベルが無ければラノベに分類されていなかったであろうものが多いように、現在のヴァーチャルYouTuberたちの動画には、ヴァーチャルYouTuberブームが無ければ別の括りに入れられていたであろう作品も多い。

 例えば、周りのオタクたちに大人気な 月ノ美兎と鳩羽つぐにしたってそういう面はあるだろう。

  月ノ美兎は素が出すぎていて、ヴァーチャルYouTuberというより、インターネットおもしろお喋りラジオパーソンといった風情だし、鳩羽つぐに至ってはショートアニメーション・短編映像作品だ。自分は、鳩羽つぐの動画が「日本アニメ(ーター)見本市」の中に入っていても違和感無いと思う。

 

 そんな感じでヴァーチャルYouTuberブームとラノベブームの類似性について語ってみたところで、実際に自分が注目しているジャンル横断的なヴァーチャルYouTuberを何人か紹介してみたいと思う。

 

 
●ミソシタ

www.youtube.com

 ミソシタは作曲・映像・歌唱と多才ぶりを発揮しているヴァーチャルYouTuberである。

 彼(彼女?)の動画は、ヴァーチャルYouTuberの枠組みが無ければ先鋭的な芸術として評価されていただろうと思う。

 ミソシタ自身は、全裸で青白くて頭がクソ長くておっぱいという異様な外見をしているが、注目すべきなのは天才的な楽曲だろう。超クールでエモいのだ。

 とくに現段階での最高傑作と目される『『ミソシタ#9』ミッドナイト・ファイティングブリーフ』は素晴らしい。

 最初は、group_inouモーモールルギャバンを足して2で割ったようなグルーヴ感という印象だったのだが、聴いているうちにどんどん勇気が湧いてくるのだ。歌詞はほとんど下ネタなんだけれど、それを真剣に歌い上げるミソシタ。

 映像がまた最高で、個室ビデオ空間を木馬に跨ったミソシタが驀進していくというもの。セックスには決して至らない個室ビデオという閉じられた暗い性空間を、幼児性の象徴である木馬に乗り、ただひたすらに真っすぐ進んでいく。最後に手を繋いだ二人のミソシタが現れるところまで含めて完璧な映像。これ以上エモい映像があるか。*2

 そんな曲。

 

 

 

●日雇礼子

www.youtube.com

 バーチャルその日暮らしお姉さんの日雇礼子さん。

 バーチャルなのはキャラクターだけで、それ以外に映っているのは大阪の圧倒的なリアルである。

 そう、西成(あいりん地区)を歩きながら紹介してくれるバーチャルYouTuberなのだ。

 その紹介動画は圧倒的なリアリティを誇っており、紹介してくれるエピソードの一つ一つは強烈な説得力を持っている。実際に西成で日雇い労働をした者にしか出せないであろう“圧”があるのだ。

 しかし、その紹介の語り口はむしろ清々しく軽快だ。タンクトップ姿の可愛いお姉さんに西成を楽しく案内してもらえる。そんな素晴らしい動画。

 

 

 

●世界クルミ

www.youtube.com

 世界クルミは、ヴァーチャルYouTuber古参の中でも独特な空気を放つ、自分を女子高生型AIと言い張る小麦粉の塊だ。

 見ての通り、「謎のキャラクターの良く分からないコント」というのがメインの投稿動画。

 彼(彼女?)もまた天才だと思う。決してスタイリッシュではないが、何とも言えず泥臭いシュールさがある。ゼロ年代前半のFLASH感もあり、なんとも懐かしい笑いを体験できること請け合いだ。

 ツイッターで世界クルミはミソシタとのキャラ被りを心配していたが、全く被ってないと思う。

 

 

 

●高い城のアムフォ

www.youtube.com

 完全に人形劇である。

 ヴァーチャルYouTuberとは何なのか、考えることになったきっかけの一人。

 

 合成音声で喋りリモコン操作でモーションが動くバーチャルYouTuberのらきゃっとを指して「バーチャル浄瑠璃」と言われることがあるように、一部のバーチャルYouTuberには浄瑠璃的、人形劇的な要素があることは否めないが、

高い城のアムフォに関しては完全にアナログ人形劇である。

 というか完全に人間の手が映っている。バーチャルとは何なのか。

 

 それはさておき、注目すべきは、中世風な創作異世界の文化だろう。毎回、謎の楽器や、謎の呪術や、謎の飲み物や、チャトランガ系っぽい謎のボードゲームなどを紹介してくれる。

 もちろん異世界の言語で、だ。

 そんな独特の世界に浸れる動画を上げてくれている。

 ちなみに「高い城の」と聞くと、SFファンはフィリップ・K・ディックを思い出してしまうが、今のところディック要素やディストピア要素は無さそうである。

 

 

 

 

 だらだらと色々書いてきたが、ヴァーチャルYouTuberという奇妙な文化現象にはまだまだ語ってみたいことが沢山ある。

 ブログ記事に書くことは、書きながら考える行為でもあるので、また何回かヴァーチャルYouTuberについての記事を書くと思う。

*1:就活がしんどいので、最近は如何にしてスタイリッシュな無職になるかをよく妄想している

*2:先月この話を友人二人にしたら全く共感してもらえなかったので、「わかるよ」って方がいらっしゃいましたらコッソリ教えてください

雑記08:河原町のジュリーはどこにいる

 

  今日はホームレスの話をしようと思う。

 夜勤バイト先の解放スペースによく出入りしていた、ホームレスのおっちゃんがいたのだ。

 なかなかの臭いを放っていたこともあって、バイト先の人間からは嫌われていたが、自分は、どこかそのおっちゃんに愛着のようなものを感じていた。

 

 少なくとも、そのおっちゃんにゴキブリを見たかのような目線を投げる職場の人たちよりも、自分は、あのおっちゃんの方が好きだったと思う。

 

 中学生の頃からずっと、自分は将来ホームレス状態になっても全くおかしくない、と思っていた。

 当時読んだ貧困についてのノンフィクションの影響もあっただろう。その本には、自分と大して変わらない境遇にいた青年が、些細なきっかけからホームレスになってしまう経緯が書かれていた。

 あらゆる可能性を使い果たして浮浪者になった自分のイメージは、その頃から今も、ずっと頭の片隅にある。

 

 そして、二十代にもなると、敷かれたレールを脱線するのが如何に簡単か、そして脱線した後にレールの上に戻るのが如何に難しいかが、だんたんと身近なものとして分かってくる。

 そんなことを考えていた自分は、ホームレスのおっちゃんの中に、自分のあり得るかもしれない未来を見ていたのだろうか。

 

 上にも書いた通り、職場の人たちはそのホームレスのおっちゃんを嫌っていたのだが、一人だけ、そのおっちゃんに少し優しく接していた職員のおじさんがいた。

 そして、その職員のおじさんが、自分に「昔は“河原町のジュリー”ってのがいてな」と話してくれたのだ。

 

 

 河原町のジュリーは1960~80年代に河原町附近を徘徊していたホームレスの愛称だ。

 河原町のジュリーは多くの人に愛されていたそうだ。「見かけたら良いことがある」みたいな都市伝説が流れていた中学校なんかもあったようである。

 

 自分は、京都出身のローザ・ルクセンブルグというバンドが好きなのだが、このローザにも、河原町のジュリーを題材にした「だけどジュリー」という曲がある。凄く良い曲なので是非聴いてほしい。

 

www.youtube.com

 

 河原町のジュリーの愛され方を考えると、当時の京都は、今よりもずっとリベラルな雰囲気だったんだろうなと思う。それが良いことかどうかは別として。外国人観光客の増えた今の河原町をホームレスが徘徊していたら、おそらく排除されるだろう。

 

 当時の京都ではかなり有名だったようで、自分の周りにいる五十代以上の京都人は、みんな河原町のジュリーのことを知っていた。

 そして、先日京都大学を退官された若島正も、学生時代によく河原町のジュリーと顔を合わせていたようである。

 ちょっと長くなるけれど、一連のツイートをここに引用しよう。

 

 

 これを読んで思ったのだ。バイト先のホームレスのおっちゃんに感じていた自分の気持ちにも、通じるものがあるかもな、と。

 

 

 就職活動と言う、敷かれたレールから外れまいとする行為をしていると、どうしてもあのホームレスのおっちゃんを思い出してきてしまう。

 しかし、ここ一年くらい、バイト先であのおっちゃんを見かけていないのだ。

 死んでしまったのだろうか。

 どこかで保護されていればいいが。

 京都の冬は寒いのだから。

雑記07:湯シャンとクソ高いシャンプー

〇スケジュールについて

 

 就活のせいでスケジュール帳が「ミチッ」っとなっていて、とても憂鬱である。

 

 いや、スケジュール帳を埋めるときは楽しいのだ。

 なんなら、ちょっとした満足感すらある。

 自分の人生が充実しているような気持ち、あるいは「自分が他の誰かに必要とされている」みたいな錯覚を感じることもできる。

 

 しかし、スケジュール帳にある予定を粛々とこなさなければならないのはツラいのだ。予定に雁字搦めにされているような気分になる。

 

 スケジュールを埋めるだけ埋めて、その予定を全部無視していく人生が最高だと思う。

 そこを目指していきたい。

 

 

 

〇クソ高いシャンプーについて

 

 自分はもう5年近く湯シャン派である。

 つまり、髪を洗うときにお湯しか使っていないのだ。

 

 湯シャンのメリットはいくつもあって、

①髪質が良くなる(場合もある)

②シャンプー代がかからない

③洗い残しによるニキビが出来ない

④自分の体質に合ったシャンプーを探す手間がない

⑤銭湯へ行ったときにシャンプーが備え付けられているか気にしなくていい

 など。

 

 しかし、やはりデメリットもあって、

 ワックスを使ったときは、かなーり丁寧に洗わないと落ちないのだ。

 

 今まではユルめのワックスを使っていたからそれでも良かったのだが、

 就活でちょっとカタめのジェルを使うようになって、お湯ではどうにもならなくなってきた。

 

 そこで、美容師の人から

  「高いシャンプーは全然違うから一度高いシャンプーを買ってみるべき」

 とのアドバイスを受けたので、頑張って1本3000円くらいのクソ高いシャンプーを買ってみた。

 

 使ってみると、これが驚くほど凄いのだ。

 洗ってからドライヤーで乾かした後の手触りがまるで違う。

 手櫛するとスルスルと抜け、ツヤも弾力も湯シャンしていたときとは驚くほど違う。

 

 これが高いシャンプーの力、これが金の力かと。

 5年間の湯シャンは何だったのかと。

 

 そういうわけでクソ高いシャンプーを使い続けていたのだが、2週間くらいしてからちょっとした異変に気が付いた。

 

 髪の分け目が若干薄くなっているのだ。

 

 慌てて触ってみると、湯シャンをしていたときに比べて、毛根の密度が薄い。

 

 ここにきて、湯シャンを始めたときに毛量が増えたのを思い出した。

 

  やはりシャンプーは、髪の毛にはプラスの効果だけど、毛根にはマイナスのものなんだと思う。

 もちろん、今回使ったシャンプーが自分の体質に合わなかった可能性もあるし、毛根育成シャンプーとかを使ったことがあるわけではないので、これは主観の域を出ない。しかし、やはりほとんどのシャンプーは毛根にとって毒だと思う。

 

 「湯シャンをしている」と告げたときに「毛根に汚れが詰まってハゲるぞ」と言われたことが何回かあるが、これはシャンプーを作っている会社が流したイメージに過ぎないいとだろう。

 なぜなら、これが本当ならホームレスの人たちは皆ハゲてないといけないから。

 実際にはホームレスの人たちは髪の毛フサッフサである場合がほとんどだ。

 ホームレスの人たちがフサフサなのは、「シャンプー毛根には毒仮説」を支える重要な証左の一つだろう。

 

 そんなわけで、クソ高いシャンプーは就活用のジェルを使ったときだけにして、それ以外のときは湯シャンを続けることにした。これで少し様子見してみるつもり。

 

 しかし、健康について考えるときにはいつも悩むんのだが、人間の身体に影響を与えるものの要素は多種多様すぎて、一つの仮説を証明するのは非常に難しい。

 今回、自分の毛量が少なくなったのも、「就活のストレスでハゲた」と解釈できなくもない。

 試行錯誤しながら自分に最適なやり方を見つけていくしかないのだと思う。

 

 もし就活が終わった時に自分の毛髪がメチャクチャ薄くなっていても、どうか笑わないでいてほしい。

雑記06:文章と映像と動画と、それとVR

 

 この3月でTwitterを始めてから丸7年になったようだ。

 当時はまだ高校生で、クラスの中でTwitterをしているのは3人とかいう状況だったのを覚えている。

 そのころのTwitterにはもちろん動画を投稿する機能はなく、写真も1ツイートにつき1枚まで。今よりもはるかに「文章を投稿する」SNSという感じだった。

 

 そのころは、Twitterが少しずつ人気になっていくなかで「出版不況だというけど、人が文字を読むのを止めたわけではなくて、形が変わってきているだけだ。むしろ人はネット環境によってどんどん文章を読むようになってきている。文芸の未来は明るい!」と思ったものだった。

 

 しかし、御存じの通り、状況は大きく変わった。

 Twitterでバズるツイートは、画像か動画がほとんどという状況になった。

 CPUの処理能力が上がっていくにつれ、ネットは「文字を読む」ツールから、「文章から映像まで気軽に楽しめる」なってきたのだ。そして、普段そこまで文章を読み書きしない層もネットを日常的に利用するようになってきたのだ。高校生のときの自分が「文芸の未来は明るい!」と思ったときには、何のことはない、単に「普段からある程度文章に親しんでいる人たち」しかネット上で可視化されていなかった、というだけのことだったのである。

 

  ネット上での表現方法はどんどん多様に、そして豊かになってきている。

 

 10年前はネット上の動画がここまで身近なものになるとは思わなかった。そう考えると、VRも10年後にはかなり身近なものになっているんじゃないかという気がしてくる。

 今はVRchatの参入障壁はかなり高いが、数年後にはかなりの人が参加するコンテンツになっているんじゃないかと思う。そうなってくると、ブログを開設するくらいの気持ちでヴァーチャルYouTuberを始める人が増えてくるように思う。

 今でこそヴァーチャルYouTuberになるには金銭的・技術的な面でハードルが高いが、心理的な面でのハードルはブログとそれほど変わらないように思う。自分の人格の手前に、キャラクターという「盾」を置くことができるのが大きい。5ちゃんねるで叩かれたとしても、それは生身の人間ではなくてキャラクターなのだから、受けるダメージは比較的小さい。

 

 ネット上の表現方法がどんどん多様になっていき、VRも文章や画像、動画に並ぶメディアになっていくと思う。ならば、その先はどんな世界になっていくのか、すごく楽しみな半面、少し怖いところもある。

 

 まず、ある程度お金をかけたコンテンツが作りにくくなってしまうんじゃないか、ということ。映画産業は別格として、出版社やテレビ局はこれから厳しい時代を迎えるんじゃないだろうか。もちろん、「文字を読んで喜ぶ文化」、「映像を観て喜ぶ文化」は残り続けるだろうが、無料のコンテンツが大量に溢れているなかでは、今の既存のメディアが持っているアドバンテージは、ブランド力と人脈がメインだと思う。ノウハウと金銭面のアドバンテージは、相対的にどんどん重要度が落ちていくだろう。だとすれば、良いコンテンツを作り続けるだけではジリジリと先細っていくしかないように思う。お金のかかったドキュメンタリーが作りにくい状況が生まれてしまったら、それはちょっと寂しい。

 それから、コンテンツの多様化によってかつてないほどに個人化が進むんじゃないかということ。テレビの視聴率もどんどん下がっていて、みんなが体験を共有するコンテンツというのはかなり少なくなってきている。それは少し寂しいんじゃないかと思うが、まあしかし、これは街頭のテレビにみんなが集まっていた時代を懐かしむような考え方かもしれない。

 

 不安な気持ちもあるにはあるが、やはりコンテンツが多様化していく世界は、それだけ豊かな世界だと思う。だから楽しみな気持ちの方が大きい。

 ネットとコンテンツの未来がどうなるのか最前線で感じたい気持ちがあり、VRchatに参入したい気持ちが日に日に強まっている。VRの世界へ行くために、もやしを大量に食らうなどして生身の身体を犠牲にするのも乙なものかもしれない。

 

 ビールをガブガブ飲みながら書いたせいか、何だかとりとめのない文章になってしまった。書き直すかも。

 

雑記05:ひねくれ就活記

 

○ブログのこと

 

 全然ブログを更新できていないのに、このところ1日に30人くらいに見ていただいているようだ。そのほぼ全てがDDLCの記事

 今やDDLCはキズナアイがやるほどの人気ゲームになって、やはりネタバレを踏まずにやり過ごすのが難しくなってきたと思う。ほとんど情報がない時期にプレイできたのは幸運だった。

 

 

○就活

 

 完全に就活の闇に飲まれた。

 

 まだ3月の頭は心に余裕があったが、今はもう無心にESを書いてWebテストを受けて面接に赴くマシーンと化してしまった。つまらない人間になってしまったものだと思うが、そんなことを思うと足が止まってしまうので心を殺している。

 

 就活の短い期間で人間の有能さがわかるかと言えば、全くわからないと思う。とはいえ全てが実力主義で採用されるようになったら、それは休まる暇のない競争の世界だろうから、日本の新卒一括採用も一長一短だ。就活の期間中だけ茶番に耐えて、「将来的に仕事ができるようになりそうな人間」のフリをするだけでいい。

 就活を始めたころは、どうやってこの茶番を切り抜けようかと考えていた。

 

 そこで最初に思いついたのが、自分を文化人類学者だと思いこむ方法だ。

 つまり、

「私は21世紀の日本部族の「シュウカツ」なる特殊風俗についてフィールドワークに来た文化人類学者だ。この日本部族は「カイシャ」と呼ばれるムラ社会を形成するらしい。このムラには「ダイヒョウトリシマリヤク」と呼ばれる長(オサ)がいる。自分の研究を完成させるには、何としてでもこのオサと直接コンタクトを取りたい。しかし、オサはムラの中で高い地位にあるため、部外者が簡単に近づけるような存在ではない。そこで「ジンジ」と呼ばれるムラの中でオサとの仲介役を果たしてくれる人物に取り入って、ムラの一員と認めてもらい、自分をオサに紹介してもらう必要がある。このジンジに取り入るために必要になってくるのが、自分をムラの一員と認めてもらうための「シュウカツ」という儀式なのだ」

 と、思いこむのである。

 

 しかし、この方法は当然ながら役に立たなかった。

 アホなので最初はこの手法を真剣に試してみたのだが、これで自分に暗示をかけるにはかなり無理があるとわかった。もし実際にこれで暗示がかかったとしたら、そいつはかなりヤバいやつだろう。俺が人事なら速攻で落とす。

 そこで役に立ったのが借○玉氏のブログ記事だった。

syakkin-dama.hatenablog.com

 いろいろと思うところはあるが、この「茶番センサー」を壊す方法については全く正論だと思う。

 つまり、就活に時間とお金をできる限り注ぎ込んで、「就活くだらねー」とかいう意識を一切頭のなかから消し去ってしまうのだ。

 不思議なことに、実際に大量の就活本を読み漁ったり、会社説明会に参加しまくったりしていると、常住坐臥就活のことが頭から離れなくなり、「くだらねー」なんていう意識はすっ飛んでしまうのである。

 たぶん、ひねくれ者は「茶番センサー」を破壊しないと、就活のスタートラインにすら立てないと思う。「茶番センサー」を破壊して、やっとスタートラインなのだ。「茶番センサー」を壊さずに生きる道もたくさんあるだろうが、就活をしようと思ったなら、まずは涙を呑んで頭を就活で染め上げる必要があるだろう。もしこれを読んでいる後輩がいたら、就活をする際にはなるべく早くこのセンサーを壊してしまうことをお勧めする。

 「茶番センサー」を壊さないままひねくれ者であり続けて、モラトリアムを延長しまくって大モラトリアミールとなることも考えたが、新卒カードを切れるのは人生で一度きりなのだ。切っておいてもバチは当たらないだろう。人生の選択肢は、大学に入った時ほど無限ではないが、社会に出てからもなおやはり無限だと思う。

 

 上の借金○氏のブログ記事を読んでいなかったら、今もノンベンダラリと就活生になりきれない就活生のままでいただろうから、その意味ではとてもありがたい。

 代わりに就活の闇に飲まれて何も面白くない人間になってしまったが、就活は人生の内のほんの数か月の期間でしかない。

 早ければ六月の頭には終わるのだから。

 

 この話を東大の哲学科を出た友人に話したら、

 「まあ人生と言うか世界の大半は茶番だからね。茶番じゃないものを探すほうが難しい……茶番じゃないものって何だろう……ああ「神」とかは茶番じゃないね。「国家」も茶番だし、「神」くらいだよ茶番じゃないのは」

 とのことだった。

 俺も早くそっちに戻りたい。

 

『Doki Doki Literature Club!』はヤバいゲーム

『Doki Doki Literature Club!』

 

 前回に引き続き英語圏のノベルゲームをプレイした。

 それが『Doki Doki Literature Club!』

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ddlc.moe


 『Doki Doki Literature Club!』は「Team Salvato」が製作した完全無料のノベルゲームである。

 高校の文芸部を舞台に、可愛い女の子4人と楽しい楽しい学園生活を送るギャルゲーだ。

 ギャルゲーをほとんどやったことのない自分にも、このゲームが日本の恋愛ゲームの多大な影響のもとに作られているのはよくわかる。


 しかし、このゲームは、単なるギャルゲーでは決してない。

 

 むしろ恋愛ゲームが好きな人よりも、普通の恋愛ゲームに違和感を持ってしまうような、そういう人にこそやってもらいたいゲームだと思う。


 

 自分は英語版でプレイしたが、どうやらつい先日、非公式ながら日本語化パッチが出たようだ。
 こりゃやるっきゃないね。

ch.nicovideo.jp


 おそらく、『Doki Doki Literature Club!』はジワジワとに人気が出てきて、日本でもいつSNSでバズってもおかしくないと思う。

 そうなると、ネタバレを避けるのはかなり難しいだろう。
 現にWikipedia記事などを含め、ネタバレに触れてしまう危険性は少しずつ増えてきている。
 
 このゲームは、その核心については何の前提知識もないタブラ・ラサな状態の方が確実に楽しめる。
 だから、ネタバレがほとんど出回っていない今のうちにプレイして、新鮮な驚きを体験してほしい。

 


以下は当たり障りのない程度に紹介して、そのさらに下でネタバレの感想を書こうと思う。

 

 

ゲームの紹介

 とりあえず、ここに載っていた、公式ページでの紹介の翻訳があんまり良くなかったので、自分で試訳を作ってみた。
 と言っても自分の訳もそんなに良くないだろうけど。



こんにちは。モニカです。

 

 ようこそ文芸部へ! 大好きなもので、特別な何かをつくること。私はそれを、いつも夢見てたの。さあ、あなたも部の一員。このキュートなゲームで、私の夢を叶えるのを手伝ってほしいな。

 

 他愛のないおしゃべりと、楽しい部活動でいっぱいの毎日。ユニークで魅力的な部員たちと一緒だよ。

 

サヨリ 幸せがなにより大切で、お日さまの結晶のように元気。

ナツキ キュートな見た目と裏腹に、積極的なエネルギーに満ちた女の子。

ユリ 内気でミステリアス。本の世界に安らぐ人。

そしてもちろん、モニカ。文芸部の部長! それが私!

 

 あなたがみんなと友だちになって、文芸部が部員にとって、もっとくつろげる場所になるのを手伝ってくれるなんて、すっごくワクワクしちゃう。だけど、あなたはもう「恋人」なんだって、言っちゃていいかな。――ずっと私と一緒にいるって、約束してくれる?♥

 

 

 ゲームの大きな特徴としては、毎日の終わりに詩をつくるパートがあること。

 
 実際には単語を選択するだけなのだが、どの単語がいいかを考える作業は、実際に自分が文芸部で活動をしているかのよう。

 

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 そしてこのときに選んだ単語によって、各キャラクターの自分に対する好感度が変化するようになっている。
 

 やってみればわかるとは思うが、活動や自然、恋愛に関連する単語を選ぶとサヨリの、可愛い単語を選ぶとナツキの、そして抽象的だったり衒学的な感じの単語を選ぶとユリの好感度が上がるようになっているようだ。
 

 この好感度によって、各キャラクターとのイベントのロックが解除される仕組みになっている。


 

そんな感じで、可愛い女の子たちと楽しい部活動をする、一見普通に見えるギャルゲーなのだが……というゲーム。

 

 以下にネタバレありの感想を書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 もう未プレイの人は誰もいない? 

 全員エンドロールまで見た?


 

 

 いや、とんでもなく怖いホラーゲームでしたね……。
 
 そして素晴らしくよくできたゲームだと思う。ギャルゲー版ディック的現実崩壊感覚と言ってしまってもいいんじゃないだろうか(それは冗談)。

 


ゲームのあらすじ


 感想に入る前にゲームの大まかな流れをまとめてみたい。

 
 1周目
 普通のギャルゲーかと思いきや、プレイヤーの選択のせいで、学園祭当日にサヨリが首つり自殺をしてしまうという急転直下。今までのセーブデータは全て失われ、主人公はサヨリを永遠に失う。
 
 2周目
 サヨリがいなくなった世界での、ユリのヤンデレ暴走ホラー展開。壊れていく文芸部と、壊れていくゲーム。バグのような演出がプレイヤーを襲い続ける。そしてユリの自殺と、その死体をまる2日以上見守り続ける主人公。

 3周目
 モニカがプレーヤー自身に直接語りかけ、衝撃の真相を明かす。ゲーム内では、モニカのみが自由意志を持ち、他の3人の文芸部員たちは主人公に恋をするようにつくられたプログラムにすぎない、ということが明かされる。モニカは3人のデータをデリートしてしまい、モニカとプレーヤー二人きりの閉じた世界が生み出される。そしてその世界は、プレーヤーがモニカのキャラクターファイルを、実際にブラウザ上で消去することによって終了する。

 4周目
 モニカが消え、三人の女の子たちが帰ってきて、一周目の日常が戻るかと思いきや、モニカの残滓は残っていた。ゲームのなかに幸せなどないと気付いたモニカによって、ゲームは自壊し始める。もう二度とは戻らないあの日々。ここでスタッフロールが流れ、エンディングとなる。そして実際に、ダウンロードし直さない限りゲームが一切プレイできなくなる。

 

 

緻密に計算されたプレーヤーの感情


 プレイし終えてみると、このゲームが非常に巧みに構成されていることがわかる。
 プレーヤーの感情の動きを、完璧に計算して構成されているのだ。

 
 一周目はプレーヤーは普通のギャルゲーを楽しみ、主人公に好意を示してくれるキャラクターたちに、自分も好感を持つように誘導される。よくあるギャルゲーの生ぬるい世界だ。

 しかし、サヨリの自殺によって、事態は急変する。主人公に無条件な好意を持ってくれるような、ギャルゲー的な単純さしかないように思えたキャラクターは、うかがい知ることのできない、複雑な内面を備えた人物であったのだ。サヨリの死は、このことをプレイヤーに強烈に自覚させる。ここでのプレイヤーの感情については、このブログ記事などが良い例かもしれない。

 

 次に、自分の選択によってサヨリを失くしてしまったプレーヤーは、サヨリを何とかして救う方法はないのか、あるいは、どうすれば救えていたのかを探るために2周目に突入せざるをえない気持ちなる。しかし、微かな希望や慰めを求めてゲームをし続けるプレイヤーは、さらなる恐怖のどん底に突き落とされることになる。

 

 そして3周目での、特権的な存在としてのモニカの登場。
 モニカのこうした設定はいくつか伏線が敷かれていた。まずは上に自分が試訳したゲームの紹介文。目ざとい人はここでゲームを紹介しているのがなぜサヨリではなくモニカなのか、そしてなぜモニカは1周目の攻略対象から外れているのか違和感を持つだろう。また、1周目の途中でプレーヤーに「大事な選択肢の前ではセーブするよう」忠告するセリフが少しだけ出てくる。
 ともあれ、この3周目のでモニカは、キャラクターたちのデータを消去することによって、複雑な内面を備えているように思えた3人の女の子たちが、絶対的に単なるデータ上の存在でしかないことを、否応なしに突き付けてくるのである。

 モニカ自身も、ゲーム内では絶対的な力を持つ自由意志を備えた存在でありながら、フォルダから消去すれば消える運命にあるのは変わりがない。モニカの境遇を知ったプレイヤーは、罪悪感を感じながらモニカのフォルダを削除することになる。ここまで来たプレイヤーが感じるのは、もの寂しい寄るべなさである。
 
 一度キャラクターたちが、消せば消えるデータでしかないと認識してしまったプレイヤーは、1周目の最初によく似た4周目も、ニセモノでしかないのだと感じざるをえない。

 そして案の定、文芸部の活動は再開されることなく、永遠に失われてしまうのだ。

 

感想

 自分は製作者が意図したであろうプレイヤーの感情の流れに思いきり乗せられてしまった。だけどそれは、このゲームをめちゃくちゃ楽しんでプレイできたということでもあるはずだ。

 よくここまで緻密に練り上げ、PCゲームの特徴を活かした傑作を作ったたものだと思う。

 

 既存のギャルゲーに対するアンチテーゼとしての要素は、製作者の、日本のアニメ・ゲーム文化に対する愛憎入り混じった感情によるところが大きいようだ。

kotaku.com


 この和風テイストなゲームが、海外で作られたものというのは得心がいく。文化の持つ「いびつさ」や「歪み」は、その文化の中にいる人間にとってはなかなか把握しきれないものなのだろう。*1
 
 日常系アニメやギャルゲーの「日常」にどうしても違和感をもってしまう自分としては、「よくぞ作ってくれた!」と言いたくなるような作品だった。

*1:フォロワー数人から、日本のゲームにも似たものはたくさんあるという指摘をいただいた。これに関しては自分が完全に無知だったので、ここの文章は撤回させていただきたい