トマト倉庫八丁目

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『レディ・プレイヤー 1』での「現実」と「仮想現実」

 

 『レディ・プレイヤー 1』がすごく楽しい映画だった。

 サブカルチャー・オタクカルチャーネタのエモが雪崩のように襲ってきて、中盤からずっとオイオイ泣いていた。

 

 ただ、ラストについては違和感があった。

 そこで、その違和感を中心に、ネタバレありで色々と書き残しておきたい。

 

『レディ・プレイヤー 1』

 

 『レディ・プレイヤー 1』は仮想現実空間〈オアシス〉を舞台に、ヴァーチャル・リアリティにおける冒険と恋を描いた、スティーヴン・スピルバーグのSF映画。

 

あらすじ

 2045年、〈オアシス〉創始者のジェームズ・ハリデーが死んだ。彼は死ぬ間際に遺言を残していた。
 「3つの鍵」を探し出し、「イースター・エッグ」を手にした者には〈オアシス〉の運営権と5000億ドルの遺産を与れる、と。
 この鍵を探し出すため、〈オアシス〉のユーザーたちは鍵を探すゲームに熱中していた。

 主人公ウェイド・ワッツ(パーシヴァル)も、このゲームに参入する。

 果たしてウェイドは、〈オアシス〉の手中に収めようとするIOI社を出し抜いて「オースター・エッグ」を手に入れることができるのか。

 

 

 〈オアシス〉=『サマー・ウォーズ』の〈オズ〉のような空間

 「イースター・エッグ」=『ONE PIECE』で海賊王ゴールド・ロジャーが遺した「ひとつなぎの大秘宝」

 と捉えるとわかりやすい。

 

 

「現実」と「仮想現実」の対比

 

 『レディ・プレイヤー 1』の冒頭では、明らかに、「現実」は辛く冴えない世界として描かれている。

 物語は、主人公のウェイド・ワッツの冴えない顔から始まる。なんとも退屈したような、全てがつまらないといった表情。ナードっぽい眼鏡と服。

 そんなウェイドが住む、ガラクタだらけの汚いスラム街の集合住宅が映し出される。

 さらに、主人公を養っている叔母は、ヒモ男のせいで貧困から抜け出せずにいる。

 描写としては表面的で、いかにもテンプレート的などん底だ。

 

 対して、「仮想現実」である〈オアシス〉は、人々の想像の翼が羽ばたく理想郷として描かれる。

 人間のあらゆる想像が「現実」になる世界。

 現実世界では貧乏で冴えない主人公も、〈オアシス〉ではイケメンのアバターを身にまとい、仲間とともにお金を稼ぐこともできる。

 主人公だけじゃない。世界中の人々が〈オアシス〉に夢中だ。〈オアシス〉でアバターが死んで「リセット」されると、自殺を試みる人がいるほどに。

 

 つまり、作品冒頭では

 

 〈オアシス〉 > 現実世界

 「仮想現実」 > 「現実」

 

 なのだ。

 

 それを象徴するのが、主人公パーシヴァルとアルテミスが、〈オアシス〉でダンスをするシーンだろう。

 アバター同士の二人が、空中で手を取り合い、現実の物理法則から解放されて踊るシーンは、本作の中で一番ロマンティックだと思う。

 どん底の「現実」を生きるだけでは決して出逢えなかった二人が、「現実」では決してできないロマンスをするのだ。

 

 

 しかし、このシーンを境にして 「仮想現実」 > 「現実」 の価値観は逆転する。

 アルテミスは、ダンスの最中に「現実で無いデートは虚しい」と口にする。そして、その直後にIOI社の軍隊がダンスフロアに押し寄せる。

 辛くも軍勢から逃れる二人だったが、パーシヴァルはアルテミスから「あなたは現実を見ようとしていない」となじられてしまう。

 

 ここから、物語の価値観は

 

 〈オアシス〉 < 現実世界

 「仮想現実」 < 「現実」

 

 へと変化する。

 

 主人公たちの目的は、イースター・エッグ」を手にすることからイースター・エッグ」を手にすることで現実世界を変えることになる。

 つまり、〈オアシス〉は理想郷から、「どん底」を終わらせるためのツールになるのだ。

 

  

ラストの違和感

 

 結論から言ってしまうと、現実至上主義に陥ったラストシーンは、ちょっと説得力がないように思えてしまうのだ。

 現実至上主義と映像が矛盾しているように思えてならないのである。

 

現実至上主義

 本作の現実至上主義は「美味しいと感じることができるのは現実世界だけ」、“Reality is the only thing, that's real.”といった言葉に代表される。

 しかし、その現実至上主義は、本当に作中で説得力を持つものだろうか。

 

 ラストに近づくにつれ、この映画は「仮想現実」の世界を、どこか「現実」から切り離された別世界として描写しているようなところがある。

 例えば、主人公ウェイドが最後に〈オアシス〉を週休2日制にするところ。これは「ゲームは一日1時間」的な発想で、〈オアシス〉内で経済が動き人々が生活し続けている実情を度外視している。週休2日制などできるわけないのだ。〈オアシス〉は現実世界と分かちがたく組み合わさっている。

 例えば、僕たちが今、インターネット世界を舞台にした60年代SFを読んだとして、その中で主人公が「全世界インターネット週休2日制!」を宣言していたとしたら、みんな一笑に付すだろう。

 望む望まざるとにかかわらず、インターネットは我々の世界とは切っても切り離せないものになってしまった。同じように、仮想現実が我々の日常に組み込まれたとき、それは現実とは切っても切り離せないほど「現実」を侵食しているに違いない。

 世界経済と密接に結びつき、人々の実存にまで深く関わる〈オアシス〉を描きながら、ゲームでしかないようなもの、現実と切り離すことが可能なものとして描いているのは矛盾だろう。

 

現実世界の薄さ

 「現実こそリアル」という結論になった本作なのだが、これを支える映像が弱い、というのが最大の弱点だと思う。

 〈オアシス〉は圧倒的に豊かな世界として魅力的に描かれているのに、「現実世界」の描写は映像的にかなり薄いのだ。

 もちろん、スラム街、ドローン、カーチェイスなどの描写は魅力的だったのだが、それらも、〈オアシス〉を見せられた後だと、どうしてもありきたりなギミックに映ってしまうのである。

 そう、〈オアシス〉の映像があまりに気合が入ったものであるがために、本作の現実至上主義が説得力を失っているように思えるのだ。

 「美味しいと感じることができるのは現実世界だけ」と言われても、食事シーンが一度もない本作で、この言葉が説得力を持つとは思えない。「触覚が再現できるスーツが開発されているんだから、味覚が再現できる技術が発明されてもおかしくないんじゃないの?」と思った人もいるんじゃないだろうか。

 

 そして、尺の都合もあるだろうが、『レディ・プレイヤー 1』での「現実世界」は、“いかにも”という感じの典型的な設定に満ちている。

 「現実世界」が〈オアシス〉の世界よりもウソっぽくなってしまっているように思えるのだ。

 典型的オタク風の見た目をした主人公、ガラクタだらけのスラム、ヒステリックな叔母とヒモ男、ヒロインの痣、主人公の仲間たちが被差別の対象である黒人とアジア人であること、ザ・悪役という感じのIOI社長。

 これら「現実世界」を彩るキャラ・アイテムの内面が深堀りされないままなので、どうしても作中の「現実世界」はフィクション臭さを帯びる。

 

 要約すると、映像的にはずっと 〈オアシス〉 > 現実世界 なのに、物語の価値観は途中からいきなり 〈オアシス〉 < 現実世界 になるのだ。

 つまり、“Reality is the only thing, that's real.”の根拠は作中にはほとんどなく、観客自身がいる本当の「現実世界」にしかない。

 これが本作最大の弱点だと考えている。

 

 ラストシーンでの、ウェイドとサマンサが天井からぶら下がったヒモを利用してキスをするシーンよりも、〈オアシス〉内でパーシヴァルとアルテミスが重力に縛られずに踊ったシーンの方が、よっぽどロマンチックで見ごたえがあったと思う。