『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が一点だけ本当に許せなかったので文句を言う
今回のゴジラは絶対にやってはいけないことをやってしまったと思う。
たとえ、どんな前提があったとしても、「日本人が核兵器の犠牲になることで人類が救われる」映画をアメリカ人が作ってはいけない。
それも、ゴジラを冠する映画でこれをやってしまったことに、本当に怒りを覚えた。
初代ゴジラをリスペクトしろとは言わない。しかし、絶対にやってはいけないことがある。
問題なのは、世界を破壊しまくるモンスター・ゼロ「キングギドラ」を倒してもらうため、渡辺謙演じる芹沢博士がゴジラに放射能を捧げるシーンだ。
ゴジラを愛する芹沢博士は、潜水艦に乗って傷ついたゴジラの元へ行き、核兵器のスイッチを押し、自らが犠牲になることでゴジラを復活させる。こうして復活したゴジラは、王(あるいは神)のような存在となり、キングギドラを倒し、世界を救う。
個人的には、ありえない展開だと思う。
ちょっと考えれば「広島と長崎が犠牲になることで第二次世界大戦は最小限の犠牲で終わった」「世界のリーダーであるアメリカが核兵器によって秩序をもたらした」といった理屈を肯定するような展開だとわかるだろう。*1
核兵器、広島と長崎の問題を矮小化するのは、許されないことではあるだろうが、アメリカ人の感情的には仕方ないところもあるだろう。どの国の人間も、何十年も前に自国が犯した罪から目を背けたくなるのは当たり前だ。
しかし、核の歴史の矮小化を、「ゴジラ」を冠した作品でやってはいけなかったと思う。悲しいし、腹が立つ。
フィクションには、普通の語りでは語り尽くすことのできない苦しみや悲しみ、怒りやトラウマを語ることができる機能があると思っている。
1954年の『ゴジラ』は、まさにそういう語り尽くせないものを語るためのフィクションであった。普通の物語では語ることのできない体験が、ゴジラという歴史に残る怪獣を産み出したのだ。
「普通の物語では語ることができない体験」とは、もちろん、2度の原爆投下のことだ。
終戦から10年経っておらず、キャストがほぼ全員戦争を経験している。その時代に核兵器を扱うフィクションを描くということが、何を意味するのか。『キング・オブ・モンスターズ』の製作陣は、少しでもそれを考えたことがあったのだろうか。
一秒たりとも考えていないだろう。考えたのであれば、「オキシジェンデストロイヤー」を、あんな表層のイメージだけをなぞる、ペラッペラな、動物的消費の対象としては描けなかったはずだ。
圧倒的なトラウマの語り直し、という意味では、庵野秀明の『シン・ゴジラ』も当てはまるだろう。
『シン・ゴジラ』は東日本大震災と、それにともなう福島原発事故を非常に意識した作品だった。津波の映像を思い起こさせるゴジラの初上陸、放射能汚染の描かれ方など、3.11を記憶する人にとっては胸を締め付けられるような映像が続く。
初代ゴジラ、そしてシン・ゴジラの恐ろしさ、そしてゴジラの圧倒的な大きさは、それぞれの世代が体験したトラウマの大きさを体現している。
今回の『キング・オブ・モンスターズ』とテーマ的に似通っている『ゴジラ対ヘドラ』も、トラウマ的な経験についてのフィクションと言ってもいいと思う。公害の具現化であるヘドラは、水俣病やイタイイタイ病が起きた1970年代のリアルを反映している。『ゴジラ対ヘドラ』は高度経済成長のエネルギーと公害の凄まじさを受け、或る意味で異様な作品となっている。*2
もちろん、よく知られているように「ゴジラ」は初代以降、キャラクターとして、時に愛らしい存在となっていった。しかし、核兵器の問題だけは、もっとセンシティブになってほしかった。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、ゴジラ愛に溢れる映画ではあったが、ゴジラ作品の魂を、しっかり受け止めているようには思えない。
「オキシジェンデストロイヤー」や「モンスターゼロ」といった、ゴジラファンなら興奮するだろう名前を出しても、それは表層をスッと撫でただけの、うすら寒いものとしてしか響かなかった。過去のゴジラ作品のデータベースから、キャラクターやアイテム、諸々のモチーフを借りてきているだけで、それに魂が入っていないと感じたのだ。
ゴジラやモスラ、キングギドラの「キャラ萌え」映画としてなら、『キング・オブ・モンスターズ』は悪くないだろう。観たい絵もしっかり魅せてくれたし、やや単調ながらも、やはり怪獣同士のアクションには迫力があった。
しかし、政治的な理由から、自分はこの作品を否定する。