トマト倉庫八丁目

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今更、アドラー心理学がなぜあんなに流行ったのか考えてみる

 

 

『嫌われる勇気』を読む

 ひょんなことから『嫌われる勇気』を読んだ。
 周知の通り、この本は大変なベストセラーで日本国内だけで200万部売れたらしい。単純計算で100人に1人以上が読んでいることになる。韓国でもかなり売れたらしく、大学時代に韓国からの留学生の一人に熱心に勧められたのを覚えている。
 タレントなどの有名人でもない人が書いた本としては異例のベストセラーだろう。普通ではない売れ方だったので、なぜこんなに売れたのかは気になってはいた。で、ネットで『嫌われる勇気』についてちょっと調べたところ、「アドラー心理学では承認欲求を否定する」とあった。ははーん、ナルホド、この「承認欲求の否定」が、現代のSNS疲れした人たちにヒットしたのであるな。そう合点して、「承認欲求なんて存在しないんだ」から漂う自己啓発的な香りから、この本を読むことはないだろうと思っていた。
 しかし、今回職場の人からも勧められたのをキッカケに、アルフレッド・アドラーの英語版Wikipedia記事を読んでみたところ、「目的論」や「全体論」など、自分が研究していた分野的に気になる単語が出てきた。そこで、ようやくこの本を手に取ってみたのである。
 そして読んでみて、アドラー心理学が流行した理由は「承認欲求の否定」とはまた別の側面があるのではないかという気がしてきた。
 

アドラー心理学の「目的論」について

 ざっと読んでみた感想は、考え方としては面白いところもあるけど、これって学問なの? という感じ。もちろん、作者岸見一郎の目線を通して、自己啓発本の体裁をとったものしか読んでいないのだから、学問だと思えなくて当然ではあるのだが、あまりにも「考え方次第なんだ!」という要素が多すぎるのだ。つまり、科学の基本である、研究対象(この場合は人間の心理)を客観的に観察するようなところがまるで無いのである。
 それは、アドラー心理学の世界観の根幹をなすであろう「目的論」の考えによく表れていると思う。つまり、原因→結果の因果律を基本とする自然科学的な認識を否定し、人間の心理を「目的」から遡って捉えているのだ。
 『嫌われる勇気』で説明される、アドラー心理学の「目的論」を要約すると以下のようになるだろう。
 
 アドラー心理学は目的論の立場をとり、フロイト的な原因論を否定する。フロイト的な原因論に基づいて全ての「結果」には「原因」があると考えると、「原因」から必然的に「結果」が生じることになり、未来が不可変な決定論(機械論)に陥ってしまう(自由意志が否定されてしまう)。対してアドラー心理学では「何を目指しているのか」から遡る目的論で考えるため、未来を変える、前に進んでいくことができる。原因→結果の因果律自体を否定するため、アドラー心理学では現在へ影響する原因としての「トラウマ」を否定する。
 
 と、かなり主意主義的な主張だ。これを科学と言っていいかはかなり疑問だが、とは言えこうした考え方はハンス・ドリーシュの新生気論に代表されるように、アドラーが生きた20世紀初頭にはメジャーな考えの一つだった。20世紀初頭は、デカルト以来発展してきた科学的認識である、世界を原因→目的の機械として捉える機械論的自然観への反動があった時代なのだ。つまり、「人間には自由意志があり、目的に向かって生きている素晴らしい存在なのだから、機械のように考えるべきではない!」という思想が目立つようになってきた時期だ。
 アドラー心理学のように生物・人間を目的論的捉える「学問」への批判として、アドラーとほぼ同時代人の田辺元による100年前の文章があるので、ちょっと引用してみたい。
 
 生気論は一種の目的論に外ならない。それは機械論と同じ平面に立つ構成説明の原理でなく、発見統制、意味理解の原理である。換言すれば悟性的認識の原理でなくして、反省的判断力の意味判定の原理である。単なる科学的の知に属するものでなく、知に投射せられた信に属するものである。我々は科学的認識の立場から自然を説明するに飽くまで機械観に立たなければならぬ。目的原因が因果の一項として、機械的因果の連鎖に闖入することは自然科学的認識の廃棄を意味する。
田辺元『カントの目的論』(1924)

 

  目的論は、自然科学的な世界の「説明」を行うものではなく、世界に「意味」を与えるものなのである。目的性は主観的なものでしかないのだから、科学的・客観的に自然を捉えるのであれば機械論的世界観で自然を観察するほかない。客観的な自然そのものに内的な目的を判定できるのか、というところにカントの、そして田辺の議論の面白さがあるが、ともあれ、原因から考える因果律を単純に反転させて目的から考えるのでは、自然科学を放棄してしまっている、というわけだ。
 思えば、自然科学の発展は、この世界から「意味」を消し去ってきた歴史でもあった。マックス・ウェーバーは『職業としての学問』のなかで、この「意味」消失の過程を「魔法からの世界開放(脱魔術化)」と呼んだ。目的論は、それとは逆に「意味」を与えるものであり、反動的な思想だ。しかし、第一次世界大戦後に「生の意義」の問題に直面した西欧では、「意味」を求める学問が流行した。ニーチェがそうだし、ドイツでのキルケゴールの流行がそうだ。もちろん、先にあげたドリーシュの新生気論もその一つである。
 

アドラー心理学の「全体論」について

 アドラー心理学の反機械論科学的な世界観は目的論だけではない。それはその「全体論」においてもそうである。
 アドラー心理学では人間個人を、これ以上分割できない「全体」として捉えるらしい。アドラー心理学は「個人」をこれ以上分割できない単位と捉えるため、個人心理学とも呼ばれる。
 一般的に、全体論を採用するということは、多かれ少なかれ機械論的世界観の特徴である要素還元主義を否定する。アドラー心理学も人間を分割できない「全体」と捉えるということは、細胞や原子、電気信号といったものに分割していく要素還元主義を採用しないということなのだろう。人間個人は「全体」なのであるから、部分部分の細胞や原子などを足し合わせても「全体」としてのはたらきは分からない、という立場のはずだ。
 もちろん、当たり前のこととして、高次の現象・秩序を低次の現象・秩序に還元して説明することは非常に難しい。例えば、経済活動を人間の細胞運動まで還元して説明しようとすることは狂気だろう。経済には経済の現象・秩序があるのだから社会科学が存在するのであって、当たり前の全体論は正統科学と対立するものではない。しかし、そうした当たり前の全体論に対して、「神秘的な全体論」が存在する。生命現象は、物理現象とは違うのだから何か特別な力(=エンテレヒー)が存在するハズだ、それが有機体なのである、という全体論である。アドラー心理学全体論は、そうした当たり前の全体論ではない、「神秘的な全体論」の臭いがする。なぜなら、『嫌われる勇気』を読むかぎり、アドラー心理学は人間に関して、個人という単位より下のレベルでの説明を一切否定してしまっているように見えるからだ。
 
 ちなみに、こうした神秘的な全体論は、シュレーディンガーの講演「生命とは何か」やワトソンとクリックのDNAの二重らせん構造発見を経て下火になっていくが、しかし、アドラーが生きた20世紀初頭にはかなり流行った思想だった。ドリーシュの新生気論も全体論の一種と言っていいと思うし、全体論(Holism)の言葉をつくったヤン・スマッツがそうだ。あるいは生理学の分野ではJ.S.ホールデンといった名前が挙がる。日本でも、ホールデンから強い影響を受けた西田幾多郎の生命論は全体論と言ってしまっていいと思うし、近衛文麿東條英機内閣で文部大臣をやっていた橋田邦彦も生物の「全機性」を掲げる全体論の立場を採っていた。
 
 

2010年代の潮流と「反主知主義」の思想

 と、ここまでアドラー心理学を「こんなの科学(Wissenschaft)じゃない!」とさんざんクサしてきたが、『嫌われる勇気』は自己啓発本なのだから科学じゃなくてもいいじゃん、という向きもあると思う。確かに、考え方として面白いところがあるし、自己啓発のためのものとしてこの本を否定しようとは思わない。けれど、この大ベストセラーが反正統科学的な世界観で貫かれていることには注意が要るだろう。
 ただ、思想史をやっていた人間として面白いと思ったのは、アドラー心理学の思想が20世紀初頭、とくに「戦間期」の思想潮流の影響をかなり受けているところだ。「目的論」も「全体論」もそうだし、もしかしたら本の終盤に出てきた人生の時間を「いま、ここ」の刹那と捉える考え方もそうかもしれない。
 ところで、2010年代の政治状況を「戦間期」に似ていると(井戸端会議レベルで)評した学者は多い。もちろん、ある時代とある時代を取り上げて、その共通の要素を並べただけで「似ている」と断じるのは相当に不誠実な行為だと思うし、慎重にならなければならない。が、2010年代後半は「自国第一主義の拡大」、「世界的な右傾化」、「国際機関の機能不全」などなど、確かに「戦間期っぽい」側面があるのだ。そして、個人的には、2010年代の思想潮流には、かなり「戦間期」っぽい反動があったのではないかと思っている。
 
 上で述べた正統科学的な認識に反動するアドラー心理学の特徴を大雑把にまとめると、「反主知主義的」と言えるのではないかと思う。つまり、科学的な認識の基礎である「知」よりも、「意志」や「感情」を重視するような思想なのだ。『嫌われる勇気』が説明するアドラー心理学のもとでは、すべてが捉え方の問題、信じ方の問題になってしまう。それは田辺が指摘するように、「知」の学問ではなく、知に照射された「信」の学問なのではないかということである。そして、アドラーや田辺が生きた20世紀初頭は、「信」的な、「反主知主義」的な思想が流行った時代であった。
 ここにきて、忘れ去られていたアドラー心理学が2010年代に大流行した理由の、もう一つの仮説にたどり着いた。それは、現代の「反主知主義的」な潮流に呼応したのではないか、というものである。
 
 現代の思想潮流が「反主知主義的」というのはそこまで人口に膾炙してないが、しかし右傾化も伴って、いたるところで「反合理主義的」、「反啓蒙主義的」、「反科学主義的」な思想が噴き出てきているのは確かなんじゃないかと思っている。分かりやすいところでは反知性主義がそうだし、リバタリアニズムもそうだろう。もちろん暗黒啓蒙の流行もそう。(宮台真司の考えを引くのはちょっとどうかと思うこともあるが、)宮台の意見を信ずるなら右傾化そのものも主意主義としての反知性主義の顕れだろう。そして、きっとアドラー心理学の流行も、こうした反主知主義の流れに位置付けられる。
 その裏側にあるのは、人々の「理屈はわかった。でも俺のこの辛い気持ちはどうしてくれるんだ」という感情だ。みんな、形式合理的な世界で合理的に考え、合理的に行動することの限界に気がついている。合理性を重視したところで、自分たちの人生はちっとも救われないからだ。
 しかし、それらが合理主義でがんじがらめになった我々の、資本主義の「鉄の檻」に捉われた我々の「出口」になっているのかどうかは、落ち着いて確かめなければならない。
 
 自分は、アドラー心理学のような「反主知主義」的な思想を見ると、どうしてもウェーバーの講演『職業としての学問』の、結びの言葉を思い出してしまう。ウェーバーは、第一次世界大戦後の混迷のドイツで、「生の意義」を求める青年たちに冷たく言い放つ。主知化と合理化は時代の宿命であり、学問は魔法から解放されたものでなければならない。それに背教しても、出来損ないに終わり、狂信的諸宗派をつくるに終わるだろう、と。そして、
 
 このような時代の宿命に男らしく堪えることのできないものに向かっては、つぎのようにいわれねばならない、かれはむしろだまって、つまり人がよくやるように背教者であることを吹聴して歩くことなく、ただ素直に、またかざり気なく、むかしからの教会の広くまた温かくひろげられた腕のなかへ戻るがいい、と。それはべつにかれにとってむずかしいことではあるまい。(…)われわれはかれがそうしたからといってかれをとがめることはしないであろう。
マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』

 

 と、主知化・合理化に耐えられない者にキリスト教への回帰を勧めているのだ。
 

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気