トマト倉庫八丁目

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ONE PIECE FILM REDとファミリー(あるいは成熟について)

 ONE PIECEの最新映画『ONE PIECE FILM RED』を観てきた。

 文句なしに面白く、素晴らしい傑作だった。

 大作マンガのスピンオフ的なマンガで、これだけ主要キャラの見せ場をつくり、かつ現実ともコラボしながら元の作品の良さを一切損なわずにこれだけ面白いのは離れ業だと思う。

 

 友人に言うとけっこう意外に思われることもあるが、自分はかなりONE PIECEが好きだ。

 意外に思われるのは、自分がかなりの個人主義者で、ONE PIECEの「マイルドヤンキー」的な世界観がミスマッチに見えるからなんじゃないかと思っている。

 確かに、一時期はONE PIECEを読んでいてそうした一にも二にも「ファミリー」、「仲間」的な価値観、あるいはルフィの同調圧力パワハラ性に辟易していたこともあった。

 でも、ONE PIECEは今やそうした単純化をはるかに超えたところにあると思うし、100巻を越えてなお新しいものを描き続けている作品だとも思う。この記事ではそこの部分を言語化してみたい。

 

 そしてこの記事は、自分が誕生日になると毎年考える「成熟」についての話でもある。(過去にはこんな記事こんな記事を書いた。)

 

 

ONE PIECE FILM REDとファミリー

 FILM REDの構造から話をはじめよう。FILM REDは徹底して非セカイ系的な物語だ。映像電伝虫を通して自分の歌を公開し、個人として直接的に「世界」とつながろうとしたウタは作品のなかで否定されることになる。

 ウタの配信が「ファミリー」を経由しない、個人によるものだからだ。ONE PIECE作中では徹底して個と普遍の無媒介なつながりは排除される。

 少し穿った見方をすれば、かなりヘーゲル哲学っぽい世界観だ。
 ヘーゲルといえば個人と世界の媒介をなすものは「国家」というイメージがあるが、『法の哲学』を読むと「国家」の前にまず「家族」があると思う。ヘーゲルにとっての成熟は普遍とつながることであり、それには家族があって、国家が大切であることは前にも書いた。
 (とはいえ、ONE PIECEでは「国家」はほとんど機能しない。国家は海賊たやすく滅ぼされる弱者(ファミリーより弱い中間体)か、あるいは悪政を行う悪者など機能不全に陥ったもの(ファミリーより信頼できない中間体)としてしか書かれない。それは最大限に拡大された国家である「世界政府」でさえそうだ。普遍と個との媒介はあくまでファミリーであって、国家にはなりえない。これはONE PIECEが現代で広く受け入れられている理由の一つだと思っている)
 
 とにかく、ONE PIECEの世界では徹底して世界とつながるには「ファミリー」が必要になる。

 こうした無媒介の排除をONE PIECEの欠点として批判するのは簡単だ。とくに作中でウタの歌を担当したAdoはニコニコ動画の歌い手出身で、そうした人物に「配信で世界とつながることを否定するような役をやらせるのか」という見方ができないこともない。Adoはインタビューで「コンプレックスの大きい陰な人間なので、社会に出てもまともに働ける自信がなかった」と言っているような人物なのに、一見すると「ネットでなんかやる前にまずはファミリーや社会と向き合え」と言うような、ネットでの活動をある意味否定しているようにも思える。

 しかし、そうした批判は単純すぎる。

 

拡大されたファミリー

 初期のONE PIECEでは、「ファミリー=海賊団」だったと思う。
「ファミリー」といえば自分のすぐ近くにいる人たちで、自分たちと考えを異にする人たちは「ファミリー」の外に置かれるような側面もあった。

 しかし、そうした仲間意識は次第に変容していき、新世界編以降はとくに顕著だが、明らかに「ファミリー」が拡大される。
 同じ海賊団の仲間だけではなく、他の海賊団の船員たちも巻き込んで、麦わらの一味が目的に向けて動くようになる。あるいは海賊ですらないワノ国の人たちや、価値観を全く異にするシーザー・クラウンのような人物とも行動するようになる。

 この「ファミリー」の拡大は、船員や義兄弟といった強いつながりを超え、ルフィの考える「仲間」はグラノヴェッターの「弱い紐帯」のような領域まで広がっているように見える。
 『FILM RED』もこの側面が顕著だ。世界のために様々な価値観を持つ人たちが集まり、共闘する。そこには敵の海賊団の一味もいる。結果的には同じ目標を目指すとはいえ、そのつながりは非常にゆるやかなものに見える。

 そう考えると、ONE PIECEのファミリーを経ないと世界とつながることができない世界観は自然に思えてくる。

 作曲も、映画製作も、一人で行うよりも共同で制作した方ができることは増える。
 Adoも歌ってみたの投稿からスタートしたのであって、歌ってみたの裏には作詞作曲した人がいて、ボーカロイドを作った人がいる。

 そうした人たちをドライに「共同制作者」と呼ぶか、熱っぽく「仲間」とか「ファミリー」と呼ぶかの違いでしかないんじゃないかという気がしてくる。

 

媒介と成熟

 ヘーゲルにとって成熟は媒介を通じて「市民」になることだった。

 自分は無媒介な世界とのつながりも否定したくはないのだけれど、それでも社会人経験も増えてきて「やっぱり人と何かやった方ができることが圧倒的に多いなあ」と思うようになった。

 特に自分にとって大きい変化はバベルうおを始めたことだ。自分一人では絶対にできなかったことがメンバーのおかげでできている。バベルうおメンバーという中間体を通して、あるいは「BABELZINE」を買ってく読んでれる人たちまで含めた弱い紐帯をも通して、普遍とのつながりを得ているように感じている。

 最近のワンピースを読んでいて、この感覚を思い出す。

 
 ONE PIECEも少しずつ「成熟」しているように思う。
 自分が物語としての「成熟」を感じる点は二つ。

 一つは前述の「多様なつながりの肯定」だ。(そのせいで血縁的なつながりを否定しがちになっているような気もするが。サンジの家族とか、ヤマトとか)

 もう一つは覇道の否定だ。

 ONE PIECEの大海賊時代は「覇道」、つまり力で他者を支配することの肯定だった。物語の中盤には覇気という、遠隔的な力で他者をひれ伏せさせる覇道の象徴のような能力まで登場した。
 しかし、直近のONE PIECEはこうした覇道を否定する方向に向かっている。

 それがルフィの「支配なんかしねェよ この海で一番自由な奴が海賊王だ」というセリフだし、最新刊でのルフィの新しい能力だと思う。『FILM RED』のウタの能力もそうだろう。

 もちろん自分はONE PIECEを全肯定はしない。だが、そのファミリーを媒介にする一貫性と、物語としての成熟を見て、美しいと感じている。