カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』レビュー
といっても、前回サークルの会誌で、「SF映画の原作を読む!」という企画用に書いたもののなのですが。
カズオ・イシグロノーベル賞受賞記念に、編集長の許可を取ってここにも貼っておきます。
会誌用なのでブログとは語り口がちょっと違うかも。
なお、京大SF研は今年の冬コミも参加します。三日目東メ02a。
僕は前田司郎『夏の水の半魚人』のレビューや、某翻訳をしたりしました。前田司郎は今回の芥川賞候補になりましたね。タイムリー。
冬コミの告知をします!
— 京大SF研 日曜東メ02a (@KUSFA) 2017年12月26日
評論誌WORKBOOK109号は三島由紀夫賞全レビュー!!
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『わたしを離さないで』はSF的設定を用いて、大きな運命の中に生きる人々を描いた傑作だ。舞台は近未来のイギリス、全寮制の施設・ヘールシャム。抑制の利いた文体でそこに暮らす人々を描いているようだが、その背後には奇妙な違和感がある。一見平穏に思える施設の生活は、どこかおかしい。読者はそうしたもどかしさを感じて読み進めることになるが、その違和感と謎にいつのまにか引き込まれてしまう。そして、読者は次第に明かされる真実に戦慄する。
二〇一四年には蜷川幸雄によって舞台化され、昨年にはTBS系でテレビドラマ化されるなど、日本でもポピュラーな本作だが、未読の方でまだ本書の「真実」を知らないのならば幸運だ。誰かにうっかりネタバラシされる前に読まれるのをおすすめしたい。ページをめくるにつれ、薄皮が一枚ずつはがれていくように「違和感」の正体が明かされていく独特の手触りは、設定を知らない初読時にしか得られない妙味だ。解説で柴田元幸が述べているように、「予備知識は少なければ少ないほどよい」というのは確かにそうだろう。しかし、本作の魅力を伝えるため、もう少しだけ付け足そう。
本作を無理にSFのジャンルに当てはめるなら近未来ディストピアSFとなるだろうが、ディストピア作品としてこの作品を語るのは的外れだろう。本作の主眼は社会にあるのではなく、社会のなかで生きる何ものにもなれない人間たちだ。ディストピアとしての社会は通奏低音として作品を貫いてはいるが、あくまで焦点はそこに生きる人間たちだ。イシグロは実際に読売新聞によるインタビューで「私は(……)極度にSF的な事柄は用心深く排しました」。それは「人間すべてに共通する状況下にクローン人間を描くことで、自分と異なる人たちの話だと思って読むうち、これは自分自身に当てはまる話なんだと気づいてほしかったから」と述べている[i]。主人公たちは不条理な社会を正そうとはせず、そのなかでどうにか運命に逆らおうとあがく。淡々と描かれるその姿は、SFの枠内を越えて、現実を生きるわれわれの姿に重なっていく。
本作は二〇一〇年にマーク・ロマネクによって映画化された。おおむね原作に忠実な映画化だが、時間の都合か、ラスト付近のある重要なシーンに関わる要素が省略されてしまっている。しかし、原作の静かな語りをそのままに伝えるような、静謐で落ち着いた画面構成が美しい傑作と言えるだろう。
[i] 2006.06.12 読売新聞 「わたしを離さないで」刊行 カズオ・イシグロ氏に聞く 東京朝刊 文化 13頁
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雑記02:バーチャル何とかの話とか
前回の記事を書いて、普段人に話してもガン無視されるであろうアレコレを殴り書く楽しさに気がついてしまった。
クリスマスですね。
個人的に、クリスマスが近くなると、消費に駆り立てられている感じ、欲望を強制的に作らされている感覚があってモヤモヤしますね。嫌いじゃないんだけど。
ただ、クリスマスソングを聞くのは大好きで、今日も朝から井上陽水奥田民生の「クリスマス・バニラシェイク」を聞いて、バニラシェイクを飲みたくなったりしていた。(バニラシェイクは無いのでバニラ味のプロテインを飲んだ)
クリスマスに比べたら26日から30日くらいの、年末の微妙な時期の方が好きだ。
12月いっぱいかけたクリスマスムードは、26日になると一夜にして街から消え去って、新年に向けてそわそわしながら、みんなが仕事納めをしたりして年越しの準備をする期間。こういう日々に一緒に過ごせる人たちを大事にしたいような気がする。
〇続・仮想通貨
今日までにはだいぶ回復したようだけど、一昨日の夕方には仮想通貨が軒並み暴落したようだ。仮想通貨の価格がどこで安定するのか、それとも安定せずに崩壊するのか気になる。
前回の記事でもちょっと言ったように、わかりにくいと言われているビットコインも、やはり“金本位制と労働価値説をバーチャル上で組み合わせたもの”と考えると、すっきり理解できるんじゃないかと思う。
つまり、全く新しいように見える仮想通貨が乗っかっている理論は、けっこう古典的なものなんじゃないか、ということ。よく言われている「管理者がいない」という側面も、金本位制的な一側面とすると納得がいく。
ちょっと検索してみたけど、ビットコインを金本位制+労働価値説と言っている人はけっこういるみたい。これとか。ただ、ビットコインの流行り方に比べて、その理論面を説明しているものはかなり少ないように感じた。きっと人気がないのだろう。学部時代に一般教養で受けた経済の授業で、先生が「現在の経済学のメインストリームは貨幣を扱うのが苦手」と言っていたのを覚えている。英語とかで検索すれば得られる情報の量も質も変わってくるんだろうけど、そこまでの気力はなかった。
ただし、仮想通貨が金本位制のように崩壊するのかは、誰にもわからないだろう。上のurlの人は、こんな古典的な理論のものが現代社会で通用するわけがないと言っていたけど。やはり仮想のものである点で、決定的に新しいわけだし。
〇バーチャルYoutuber
流行ってますね。
けっこう視聴しちゃったなあと思っていたら、サークルの他の人たちの方がはるかにたくさん知っててびっくりした。
キズナアイはもちろん、ミライアカリ、バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん、そして輝夜月の人気の上がり方がすさまじい。
個人的に一番注目しているのはバーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん。
オタクのおじさん(と言っても20~30代前半くらいだと思うけど)が、バーチャル狐娘になることで、みんなから可愛い可愛いと絶賛されているのがおもしろい。実際可愛い。本人もtwitterで「人間の認知への挑戦」だと言っている。
バーチャルYoutuberの文脈で、VRチャットなるものがあるらしいということも知った。
VR空間で世界中の人と身体性を伴って繋がれるというのは、メチャクチャ魅力的。VRやARがこのまま進んでいけば、これまで以上に多くの人にとって、ヴァーチャル・リアリティが現実と同じくらいの価値を持つようになるはず。
人間の身体性がバーチャル空間に延長されるようになれば、人の在り方みたいなものも変わってくるだろうと思う。
それから、ヴァーチャル・リアリティの発達は、その空間上では人の想像が現実に優先されるという意味において、観念論の復活だと思わずにはいられない。そういう観点で19~20世紀の観念論と唯物論のせめぎ合いを見るとおもしろい。ヴァーチャルな世界ではどれだけ人間中心的でも良いのだ。
雑記01:仮想通貨の話とか
もうちょっと雑にブログを動かしたい気がしてきたので、メモ代わりの雑記。
今週は研究に進展があったので嬉しい。火曜の夕方以降は、自分のテンションが少し高くてキモかったかも。
ただ、そのぶん今月は研究のための文章ばかり読んでいて、趣味の本が全然読めなかった。年末は、おもしろSFでも読んでゆっくりしたい。
〇ビットコインの話
ここ数か月ビットコインの話題をよく聞くし、自分も気になっている。ただそれは、投機対象としてではなくて、これから世の中のお金がどうなっていくのかについての興味。今現在ビットコインはほとんど使用はされていないようだけど、これが普通に使用されるようになって、貨幣が電子上のものになり、国家が管理するものではなくなったらどうなるのかが気になる。仮想通貨が当たり前になったとしたら、それはやはり名目貨幣説の勝利なのだろうか。
ドルせよ日本円にせよ国家が価値を保証してくれているわけで、ビットコインにはそうした価値を保証してくれる権威がない。電子マネーが利用できるようになれば非常に便利なのだろうけど、それは直ちに「国民国家」の弱体化に繋がるだろうと思う。グローバル化と言えば聞こえは良いけど、国家の通貨管理が特権的でなくなるのは、国の在り方がかなり変わってくる可能性もあるんじゃないかと思う。
(いずれにせよ国家という「想像の共同体」がゆるやかに解体されていく流れは止められないだろうけど、それがどの程度のペースで進むかはわからない。以外と差し迫っているかもしれないし、100年スパンの時間がかかるのかもしれない。中田考なんかは「領域国民国家」を「リヴァイアサン」として諸悪の根源としているけれど、際限なき競争が生まれてしまうようにも思う。国家なき競争が生まれたら、「お上」以外の連帯が弱い日本人は辛そうという印象)
ところで、仮想通貨は採掘(マインング)を価値の根源としているようだけれども、自分にはこれが、マルクス経済学的な労働価値説のヴァーチャルな復活のようにも思える。マルクスは、価値を生み出す労働の本質を筋肉労働と考えたわけだけど、そうした筋肉労働のようなものが電子上で行われているのが面白い。
実際にビットコインを金本位制+労働価値説で理解しようとする論調もあるみたい。
個人的には、何か世界に付加価値を与えているという実感の無い金儲けには手を出さないと決めているので、マネーゲーム的になっている今のビットコインはやらないようにしている。
このポリシーは株式についてもそうで、「この企業を支援してウィンウィンの関係を築きたい」と考えて株をやるのはアリだけど、マネーゲームにしちゃうのは止めておこうと思っている。
しかし、中国の例をのように、電子マネーが当たり前になる時代はすぐそこまで来ているようにも思うし、その国家を媒介としない形態が普通になるのも、案外簡単に実現しちゃうんじゃないかという気もする。
藤井四段がデビューしてからの将棋界
今日、藤井四段からデビュー以来無敗の29連勝を達成して、連勝記録歴代単独一位になった。
前人未踏の素晴らしい記録だ。
しかし、将棋ファンとして個人的に、この記録はつまらない。
藤井四段がデビューしてから、将棋界はつまらくてしょうがない。
この先10年は、将棋界は藤井聡太四段の独り舞台だろう。
競馬のレースにF-1カーが参戦しているようなものだ。
藤井聡太に比肩するライバルは現れず、将棋は「藤井が最後に勝つゲーム」になるだろう。
もちろん、今まであまり興味を持っていなかった人たちが、将棋に関心をもってくれるのは、一人のファンとしてとてもうれしい。
しかし、この藤井独り勝ちの展開は、将棋界の勝負を楽しみたいファンにとってはおもしろくない展開なのだ。
つまり、単純にライバルがいない。
なぜライバルが現れえないのか、藤井に対抗できる棋士が現れないかは、AI将棋の事情とも関連させて次の記事で書くとして、ここでは将棋界がつまらなくなった理由を話したい。
羽生にはたくさんのライバルがいた。
まずは森内俊之九段。
羽生と同学年で、小学生のときに将棋大会の決勝で羽生と戦って破れ、羽生に2年遅れてプロになるも、羽生よりも先に「永世名人」になった大棋士だ。
羽生と森内の間には数々の熱いドラマがある。
ほかにも佐藤康光九段、藤井猛九段、深浦康市九段、郷田真隆九段、丸山忠久九段など、羽生世代には名だたる大棋士たちがいる。
この羽生世代が40代半ばに差し掛かり、衰えが見え始め、次に棋界の覇権を握るのは誰なのかと群雄割拠の時代になっていたのが、ここ最近の将棋界だった。
羽生世代に対して、何人もの個性ある若手棋士が対抗して争っている将棋界が好きだった。
そこに颯爽と現れたのが藤井聡太だった。
その後の活躍は周知の通りである。
デビュー以来無敗の29連勝は凄い。
凄すぎる。
しかも、その多くが圧勝であり、しかもデビュー以来もの凄いスピードでさらなる成長をとげている。
これから、群雄割拠だった将棋界に君臨し、他の20代の若手棋士たちを足元にも寄せ付けないほど蹂躙していくのは、ほぼ間違いないだろう。
いつかは連勝が止まるにせよ、このまま行けば勝率9割越えになっても不思議ではない(年度勝率の歴代記録は0.8545)。
おそらく最年少タイトルも取るだろう。
今年タイトル戦に昇格した叡王戦を含めた8大タイトルを総なめにし、羽生善治を越えて史上初の八冠制覇を達成するのも時間の問題のように思われる。
そして藤井四段のライバルは少なくとも数年は現れない。
藤井四段が若すぎるのだ。
今日対局した増田四段も、16歳でプロ入りした19歳の若い天才だが、それでも藤井四段より5歳も年長だ。
それに、奨励会(プロになる前の育成会のようなもの)の二段以上に、藤井四段と同世代の棋士がいないのだ。
初段以上こそ藤井四段と同世代がいるが、その世代が四段になってプロになるのは早くても18歳前後だろう。(20歳までにプロ入りできれば、プロの中でも相当に優秀な方なのだが。)
つまり、あと10年くらいは、藤井天下の牙城に迫りうる棋士が現れない可能性が高い。
それこそ、羽生三冠(46)に対する渡辺竜王(32)くらいの年齢差になることもありえる。
それまでは、藤井聡太一人の天下だろう。
あと10年間はずっと、将棋は「藤井が最後に勝つゲーム」になる。
「藤井が最後に勝つゲーム」を観てファンは楽しいだろうか。
僕が見たいのは、どちらが勝つかわからないギリギリの攻防なのだ。
そして、どの若手棋士も、努力次第で平等にトップに立てる可能性を持った世界を見たかったのだ。
「特別」がただ一人にしか許されない世界に、凡人の自分はどんなロマンを感じたらいいのだろうか。
藤井四段がこれ以上勝ち続けるなら、将棋界は、僕にとってどんどんつまらないものになっていくだろう。
そうならないためにも、どうにか他の棋士に頑張ってもらいたい。
牡蠣の燻製を大量に作るライフハック
牡蠣の燻製がおいしい。
本当においしいのだ。
寒いのが本当に苦手で、早く春になってほしいが、牡蠣の燻製が作れなくなるのは嫌なので、もうしばらく冬でいてくれてもいい。そう思うくらい牡蠣の燻製がおいしい。
炬燵に入って作った牡蠣の燻製をパクパクしながらウイスキーを飲み、アマゾンプライムで『ぼくらベアベアーズ』なんかを観ていると、それだけで世界から無限に愛されているような気分になってしまうくらいうまい。ボンクラ感はすごいが。
牡蠣の燻製は、オリーブオイルに浸して冷蔵庫にいれておけば軽く1か月くらいはもつので、大量に作っておけば保存食としても便利。
ウイスキーをはじめとしてワインや日本酒なんかにも合うおつまみになるし、バゲットに載せればそれだけでごちそうになる。茹でたパスタに絡めるなどして料理に使ってもいい。パルメザンチーズを振りかけるとまた濃厚な味わいになる。
そんな牡蠣の燻製だが、意外と作るのは簡単。
牡蠣を茹でて下味をつけてササッと燻すだけ。
時間はかかるけれど、待ってるだけの時間が長いので、休日に本でも読みながらのんびり作れば体感の時間はそれほどでもない。
ほとんどこれを参考にして作っているだけなんだけども。
ただ、動画ではおそらく温燻(30~80度で燻製)しているけど、熱燻(80度以上で燻製)でも問題なくおいしかった。熱燻のほうが手軽なので、燻製に慣れていないうちは無理に温燻にしなくてもいいと思う。
作り方はこんな感じ。
○材料
・牡蠣 1キログラムとかそのくらい
(スーパーに売っているものだと「生食用」よりも「加熱用」のほうが肉厚で良いと思う)
・ソミュール液
水 500cc
塩 大さじ3
砂糖 大さじ3
ローリエ 2枚
セージ 小さじ半分
白コショウ 小さじ1
動画ではサドンデスソースをちょっと入れてピリ辛にしていた。
・まずソミュール液の材料を混ぜて小鍋で沸騰させ、ひと煮立ちしたらよく冷やしておく。
三温糖を使っているので茶色っぽいが、上白糖ならもっと透明だと思う。
・牡蠣は身が崩れないよう注意しながら、ぬめりが取れるまで丁寧に洗い、5~6分ほど茹でる。
熱燻にする場合はあとで十分に加熱できるので、ほとんど茹でなくてもいいと思う。茹でるすぎると身が縮んじゃうので。
動画では牡蠣の茹で汁を捨てていたが、それはあまりに勿体ないと思う。残った汁もおいしくて栄養価が高い。茹で汁の灰汁をとって出汁・酒・みりん・醤油あたりで適当に味付けをして、ネギ・生姜・大根・シイタケあたりの具材を入れて煮てやるだけで幸せになれる。味付けと入れる具材はなんでもいいが、牡蠣の臭みが気になる場合は酒と生姜はあったほうがいいと思う。
・牡蠣の水気を切り、冷ましておいたソミュール液に2時間漬ける。
・水気をよくふき取り、風にあてて乾燥させる(風乾)。
屋外で乾かすのが難しい場合は、扇風機をあてると早く乾く。ないならドライヤーでもいい。
乾かすのが不十分だと仕上がりが酸っぱくなっちゃうので注意。
・なるべく低い温度で燻煙する。
燻煙時間は温燻なら1時間、熱燻なら30分くらいだろうか。
使うチップはサクラかヒッコリーあたりが無難だと思うが、ウイスキーオークを使っても絶対おいしいと思う(まだ試してないけど)。
温燻にするならスモークウッドを使うのが便利。
これは中華鍋で熱燻しているところ
・オリーブオイルにドボン。
3日経ったくらいからうまい。優勝。
左が温燻した牡蠣で、右の茶色っぽいのが熱燻した牡蠣。
温燻のほうはしっとりしていて味・香りがまろやか。熱燻のほうはやや香りが強め。
今回温燻したほうはもう少し燻煙時間を長くしたほうが良かったかもしれない。
大人になること
誕生日だ。
20歳を越えてから誕生日はあまり嬉しいものではなくなってきた。
自分の前に広がる可能性が、部分的には、少しずつ狭くなっているのを感じているのかもしれない。
大正時代くらいまでは数え年が一般的だったから、正月と一緒に歳が増えるのを祝うことができたのだろうけど、満年齢での誕生日を祝う理由は、やや薄い。
ちなみに、僕が大好きな山下和美の漫画『天才 柳沢教授の生活』には、60歳前後の大学教授2人が「なぜ人は誕生日を祝うのか」について延々議論するだけの回がある。最高。
小学生のころは、中学生がものすごく大人に見えていたはず。
誕生日になると、そういう懐かしい感覚を思い出す。
もちろん、今は中学生がまだまだ子供だということを知っているし、中学生のころの自分は今よりずっと幼かった。
でも、20歳を過ぎて中学生の頃よりはマシになったとはいえ、自分が大人になれているのかは疑問だ。
20歳を過ぎたというのに、自分が大人になったという実感がほとんどわかない。
そういうわけで、「いかにして大人になるか」ということを、ちょくちょく考えるようになった。
今更になって、大人はこうだとか、子供はこうだとか考えているのはすごく恥ずかしいのだけれど。
20歳になれば、自然と大人になるのかと、何となくそんな風にずっと思っていたけど、全然そんなことはなくて、いまだに子供のままの自分に愕然とする。
今まで成熟だと思っていたものは、本当の成熟じゃなかった。
年齢を重ねて「こういうときにはこうする」といったテンプレートのデータベースは昔より充実してきたかもしれないけど、それは本当の成熟じゃない。
自分は、まだ全然成熟できていない。
そんな中で読んだ内田樹の文章はおもしろかった。
つまり、「成熟した市民」というのは「飢餓ベース」「貧窮ベース」で、「子ども」は「安全ベース」「飽食ベース」であり、資本主義社会は大量消費をする「子ども」を要請し、日本は「子ども」ばかりになったというのだ。
「「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである」という部分はよくわからないし、他にもツッコミどころはあるだろうが、次の部分はわかる気がした。
「子ども」たちが「子ども」であるのは、実は長い歳月のあいだ「子ども」しか見たことがなく、成熟のロールモデルを知らないからである。
申し訳ないが、親も近所のおじさんおばさんも学校の先生もバイト先の店長もテレビに出てきてしゃべる人たちも、みんな「子ども」だったのである。
「子ども」以外見たことがない人がどうして「大人」になれよう。
この部分を読むまで、自分をとりまく社会自体が未成熟な可能性を考えていなかった。
「大人」になろうとしても、周りの大人たちが「大人」じゃなければ「大人」にはなれないのは当たり前だ。
最近、大人だと思っていた人や世界が、ひどく子供っぽい、未成熟なものだった例をいくつも見たり聞いたり読んだりしたので、なおさら腑に落ちるところがあった。
とはいえ、「周りの人たちはもっと成熟しろ」みたく考えるのは、それこそ啓蒙みたいなレベルから抜け出せないようにも思う。
もし仮に周りの人たちが「子ども」ばかりなら、その中で身を処していかなきゃならないし、その中で自分は何とか「大人」になる必要があるのだろう。
そんなことを考えながら『天才 柳沢教授の生活』を読み返して、誕生日の夜を過ごしている。
柳沢教授は、僕にとっての中学時代からずっと「成熟のロールモデル」だったと気が付いた。
『白馬のお嫁さん』『消滅世界』――男性の妊娠
『白馬のお嫁さん』(庄司創)の最終三巻を読んだ。
良いSFラブコメだった。
庄司創作品ということもあって頭でっかちなのだけれど、『勇者ヴォグ・ランバ』あたりに比べると今作は良い感じに肩の力が抜けている。
ただ、あっという間に終わってしまった感じはあって、「産む男」の設定でもっといろいろ描いてほしかったなあという気持ちもある。
『白馬のお嫁さん』の魅力はユートピア的な近未来を描きながらも、問題意識と批評性がしっかりとその根幹になっているところだろう。
この点は、これも最近読んだ、男性の妊娠を露悪的・ディストピア的に描いた村田紗耶香の『消滅世界』とは好対照だ。
『白馬のお嫁さん』と『消滅世界』。両者の問題意識はかなり違うところにありながら、しかし、どちらも作中で「男性の妊娠」が「希望」となっているのがおもしろい。
『白馬のお嫁さん』では男性のバラエティとして、『消滅世界』では共同体全体で子供を産み育てる合理性のために。
描かれ方は違うけれど、読んでいると本当に男性の妊娠は希望なんじゃないかとも思えてくる。
少なくとも、今目指されている方向での男女平等を成り立たせる一番てっとり早い方法なんじゃないか。