はてなブログとnoteの使い分けについて
最近、中国ネタを書くための媒体として、noteもちょいちょい更新しています。
このブログには相変わらず雑多なことを書いて、中国文化を中心とした中国ネタはnoteの方に書いていこうかな、と。
使い分けている理由は、ジャンルごとに分かれていたほうが見やすいかなというもありますが、万が一問題が起きたときに中国関係の文章をすぐ切り離せるようにするため、というのもあります。
ご存じの通り、中国には言論の自由がないです。政治的にセンシティブなネタは検閲の対象となり、中国のSNSでは過激な発言は数時間以内に削除されます。
noteで「反体制的なネタ」を書くつもりはないですが、最近では検閲は政治ネタだけにはとどまらないようです。
中国では激しい競争と失業率の高さから「寝そべり族(躺平)」というムーブメントが流行しましたが、最近では「寝そべり」的なライフスタイルを配信していたVlogのアカウントが一斉に削除される事件もあったようです。
政治ネタでなくても、北京の価値観に合わないものは検閲の対象になる可能性があるのです。
外国人であれば、ここまで激しい検閲を食らう可能性は低いでしょう。しかし、中国に住んでいる身としては、身の安全は守るに越したことはないです。
先日、四川省でちょっとした暴動が起きた際に、中国SNSでの検閲が吹き荒れたことがありました。こういうとき、中国では街中で警察が個人のスマホをチェックして問題あるアカウントをフォローしていないかなどをチェックすることもあるようです。私も、暴動の次の日、高鉄(新幹線)の駅を歩いていたら、二人組の警察官に呼び止められました。「外国人なので中国語ワカリマセン」で切り抜けましたが、中国人であればスマホをチェックされていたのかな、と推測しています。
このように、中国について書くことは、常に一定のリスクが付きまといます。
とはいえ、中国での生活が面白すぎて、そこで味わったあれこれはぜひとも文章に残しておきたい。
こっちに来てから中国の広大さと、歴史の深さに圧倒されっぱなしなので、たくさん面白い経験を積んで、それをみんなに聞いてもらいたい。
そういうわけで、中国関係の文章をすぐにパージできるように別媒体で書いているわけです。よろしくね。
20251029日記:従属のエロティシズムと国家
会社勤めをするようになってからようやく気がついたのだが、世間には何かに従属したがっている人が大勢いる。
もっとみんながみんな自主性を持ちたいのだろうと、勘違いしていたのだ。
人間というのは、自分で何でもかんでも決めたいものだと、そう思っていた。
しかし、実際はそうではなかった。
主導権を握るよりも、頼れる存在に自分の人生の行く末を委ねてしまい。
自主性は重荷でもあり、耐えられない重さを捨てて責任から逃れたいのだろうと思う。
そのことに気がついてから、日常のコミュニケーションも前よりはうまくいくようになった。
かなり多くの人が、責任を持ちたくないから、何も決めたくないのだ。
これは、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で喝破した通りだ。
フロムは、ナチスに傾倒するドイツを前にして、自由を自ら捨てて他者へ従属する仕組みを分析した。
フロムによれば、自由から逃れるために人間がとる行動様式は次の3つだ。
-
権威主義
強い存在に従うことで安心を得ようとする。
これは、自我を捨てて国家・宗教・上司・恋人などに決定を委ね、運命に服従すうることを好む行為だ。 -
破壊性
不安を外に向け、他者や秩序を破壊することで支配感を得ようとする。
これは、外界に対する孤独感を克服するため、それを破壊する行為だ。フロムによれば、この破壊性はしばしば良心や愛国心として偽装される。 -
自動人形的同調性
周囲の価値観や流行に合わせ、自分を失う。
これは、同調圧力的に「みんながそうしているから」という理由で生きる生き方。外部の思考を、そのまま自分自身の思考として受け入れるやり方だ。
今の日本のSNSを見てみよう。
完全に、フロムが言う権威主義・破壊性・自動人形的同調性で動いている。
権威主義的に何か強いものに決定を委ね、自分と異なる意見を持つものに対して破壊性をもって攻撃し、周りの人が言っている意見に深く考えることなく同調する。
これは右派に顕著だが、左派にもかなりの頻度で見られる。
とくに、権威主義については目にあまるものがある。
高市政権になってから耐えがたいのは、アメリカに従属することに何の疑問も抱かなくなった権威主義だった。
玉虫色の所信表明演説の中で唯一はっきりしているのはアメリカには何があっても付いていく、という対米盲従政策である。強い者には諂い弱い者は居丈高に踏みつけにする。“帝国日本”は(中略)せっかく列強の仲間入りを果たしたにもかかわらず、アメリカに逆らったために敗戦国に転落し海外植民地を全て失う羽目になった。
(中略)「名誉白人」としてアジアで唯一のG7加盟国となった“帝国日本”が、敗戦のトラウマから今後は二度とアメリカに逆らわないと誓い「ホワイトハウスに朝貢して属国の代官の地位に冊封される」ことに「居つく」(©@levinassien)ことは理解できる。特に党内の基盤も弱く、分極的多党制下で極右排外主義ポピュリスト政党との連携の困難な政権運営を強いられる高市であるならば、局面を単純化し「寄らば大樹の陰」とアメリカを宗主国として崇め奉り盲従し属国の代官、「虎の威を借りる狐」となることを外交の支柱とすることはむしろ合理的な選択とも言える。
【高市早苗】新総理に待ち受ける冷徹な現実。「対中抑止の最前線に立つ地政学的緩衝国家」としての役割【中田考】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
そして、今日のトランプ大統領との演説である。
【日本の人たちを尊敬】空母『ジョージ・ワシントン』上で演説した日米首脳。
— Mi2 (@mi2_yes) 2025年10月28日
トランプ大統領「この女性は勝者だ。日本もアメリカも株式市場は最高値。世界でめったに見ない同盟関係だ」
高市早苗総理大臣「平和は言葉だけではなく確固たる決意と行動によってこそ守られる」
もうめちゃくちゃ仲良し… pic.twitter.com/aLK4bPnMxL
しかし、世界のジャイアンとしてふるまい、「アメリカ・ファースト」を謳うアメリカにべったりついていくことは正しいのだろうか。
自分には、ジャイアンに叩かれたくないがためだけの盲目的に追従になっているとしか思えない。
嘘と思いたい。
— 毬谷友子 🕊 TOMOKO MARIYA (@mariyatomoko) 2025年10月28日
これ、本当ですか?
これ、税金でアメリカから買うのですよね。
トウモロコシや大豆も
やはり日本が引き取るんですね。。 pic.twitter.com/T3PO5gilP7
トランプ来日でさらに恐ろしいのは、上記だけでなく防衛費のGDP比3.5%への引き上げ要求だろう。
もちろんこの防衛費は税金から賄われるし、防衛費のほとんどはアメリカからの武器購入であって
これは、対中のために防衛費がいくら必要なのかという議論から遠く離れたところにいる。
そして、リアリズムの観点に立つと、アメリカは日本を対中の地政学的な橋頭保として見ている。対ロの橋頭保となったウクライナが今どんな悲惨な目に遭っているかは周知のとおりだ。
https://x.chttps:.com/mariyatomoko/status/1983083536589697386om/mariyatomoko/status/1983083536589697386
フロムは、権威主義に従うことのマゾヒズムについても言及しているが、まさに今の日本はアメリカに従属することへのマゾヒズム的快楽を知ってしまった人々で溢れていると言っていいだろう。
そして、高市政権を批判する人たちを破壊性をもって攻撃し、「これは中国への布陣として重要なのだ」と愛国心を偽装する。
強い存在に身を委ねる快楽に溺れているのだろう。
石破茂は「なめられてたまるか」的な不器用さはあったものの、理性を武器に独立を模索した。しかし、国民はそれを拒み、従順さを誇りに変える首長を歓迎した。
中田考も言うとおり、戦後の日本は「敗北」を「文明の洗礼」へと変換した。アメリカに支配されることを、恥ではなく進歩と感じるように内面化してきたのだ。
高市を称賛する国民は、白人からの支配を性的に感じているのではないだろうか。「西洋に認められて名誉白人となること」が最高の悦びであり、アジア人たる自らを自覚することは徹底的に拒否しているようにしか思えない。
その根は深く、明治から続く「我々はアジア人ではない」とする幻想が無意識の奥で燻っている。
結果として、「右翼」と呼ばれる大半はアメリカに支配されても怒らない。
もちろん、一水会のような対米独立を志向するような右翼は違う。
天皇陛下に人差し指を向ける非礼のあったトランプ大統領の脇で、飛び跳ねてポチっぷりをアピールしたのが高市首相の正体だった。かたや枝野幸男氏が「他国を意味なく排除することも、米国も含めて他国に媚びることも、愛国の精神とは真逆」と弊会投稿を引用。対米自立達成のため、真摯に訴えていく。
— 一水会 (@issuikai_jp) 2025年10月29日
しかし、そもそも権威主義への従属は右翼のデフォルトモードだと言っていい。
戦前は天皇陛下や「国体」に従属し、戦後はアメリカへと従属することで自身の正当性を担保しようとする態度が右翼の行動様式だ。
むしろ逆で、これが日本の右翼のデフォです。
— 菅野完 (@noiehoie) 2025年10月29日
厳密にはこの路線を「既成右翼」って呼びます。児玉誉士夫路線ですな。
児玉誉士夫は自著で、
「かつての国家主義者、すなわち天皇と国家にあくまでも忠実であった者の中からこそ、真の親米派は生まれ出る」
と、言い切っています。 https://t.co/gqJDez7hDW
これがポピュリズムと結びとくと、支配されるマゾヒズムに快楽を委ねる大衆となる。そこには理性はなく、官能だけがある。
昨日までは日本の極右は韓国の極右と違って日本の利益を最優先にしていると思った。今日、分かったのは韓国の極右と同じ思考回路を持っていること。日本の利益なんか関心がない。奴隷根性が頭にいっぱいになってトランプ様が喜ぶことならそれでいいと思っていること。なんの理性も常識もない。高市さん…
— 파란달 (@Tsiberia) 2025年10月28日
だから右派はアメリカの支配に怒らないのだ。
むしろ、その白人の支配によって自身が正当化されると感じてしまうのだろう。これは服従のなかに官能を見出すマゾヒスト的な態度だ。
一方で、アジアの隣国の影響を受けることは、徹底して拒絶する。アジア人には、少しでも支配されることを許さない。戦後日本は白人のなかに洗練の美を見出し、同じアジア人に未開の醜を見出した。アジアから影響を受けることに、自身の未開の醜を覗くような行為として忌避したといってしまっていいと思う。
こうして、「媚中」は大罪となり、「媚米」は現実適応の仮面を被った快楽になった。
この倒錯した構造が続く限り、日本は真に独立できないだろう。
外交政策や安全保障だけの問題ではない。
もっと深く、もっと個人的な潜在意識に、醜悪な官能の問題が潜んでいる。
独立の自由が苦痛となり、支配されることが快楽となった大勢に自立を促すことは、快楽を取り上げようとする残酷な行為なのかもしれない。
20251028日記:レアアースの話
ドナルド・トランプのことはめっちゃ嫌いだけど、やっぱりしたたかな大統領だと思う。
レアアース関係でここまでうまく国際的に立ち回るとは思わなかった。
トランプ政権が法外な関税政策を打ち出してきたとき、中国内のSNSはずっと冷笑モードで、それが脅しとして機能するとは誰も思っていなかった。中国は、アメリカとの貿易摩擦でアメリカに頼らない経済圏を作り出していると、誰もが思っていたと思う。
それだけに、中国の「レアアース・カード」が切れなくなっていたのには驚いた。
中国は何年もかけて、このカードが最大限有効に機能するよう準備していたはずだ。
10年前、中国は世界のレアアース供給の90%以上を掌握していたはずで、中国は世界のハイテク産業の生命線を握っているはずだった。しかし、今回の米中会談を前に、アメリカがそれ以上に強いカードを切れるように準備していたことが明らかになった。
中国への「追加100%関税」の脅しが、有効に機能したのだ。
アメリカが用意していた包囲網は次の3つのようだ。
・中国依存脱却のためのオーストラリアへの投資支援
・国内採掘の再開プロジェクト
そして、3つ目が、今回高市首相とも結んだ、同盟国内のネットワーク構築だ。
こうして、中国が輸出規制を発動してもアメリカに致命的な打撃を受けないように準備した。
だからこそ、関税カードを悠々と切ることができたのだろう。声を張り上げて関税アップを叫ぶだけではなく、地政学ゲームで勝ち筋をつくる。「したたかさ」の極致と言っていいだろう。周りの国からしたらたまったものではないが。
トランプは商業人としてパワーゲームに非常に長けていると感じざるをえない。彼は多くの国に内心憎まれながらも、諸外国を取引先のように扱い、交渉において徹底して損得で動いている。その一貫した信条は驚嘆に値する。
トランプの強引さは国際秩序を乱しまくっているが、短期的な成果は確かに出ているだろう。
しかし同時に、アメリカは「信頼」という無形の資産を切り崩し続けている。
トランプにとっては同盟国もドライな取引先にすぎない。それゆえ、アメリカの安全保障は有料だと言わんばかりだ。
つまり、トランプはアメリカの長期的な信頼を、ドル基軸という暴力装置によって価値が裏付けられる金銭へと変換したのだ。未来の信頼を現在の利益に換金したと言っていい。
その暴力的なやり口は、短期的には成果を生むだろうが、長期的にはアメリカを孤立させる道だと思う。
ジャイアンが強いうちはみんな従うが、弱くなったときには誰も助けてくれなくなる。それどころかいじめ返されるリスクもある。トランプを奉ずるアメリカは「そんなリスクはない」と言い張るかもしれないが。
結局のところ、トランプは、少なからず信頼によっても成り立っていた国際政治を、「いつ裏切られるかわからない」パワーゲームへと不可逆的に変えてしまった。
それは徳による政治を完全に断ち、覇道へと突き進む道だろう。
映画『君たちはどう生きるか』と宮崎駿のエゴ

6歳の誕生日、自分が買ってもらったのは『となりのトトロ』のVHSだった。
自分はもらったVHSを、何度も何度も、テープがすり切れるまで観た。
ふわふわで愛らしいトトロが、大人にはわからない神秘の世界に誘ってくれるこの作品が好きで好きでたまらなかった。
しかし、『君たちはどう生きるか』で観客を神秘の世界に誘うのは、可愛らしいトトロではなく、気持ちの悪いアオサギだった。
いきなり引っ越したばかりの家で怪異が起きるが、その怪異は「まっくろくろすけ」のような愛らしいものではない。不気味なアオサギが、少しずつ日常を侵食していく。屋根裏からギシギシと足音が聞こえたりと、その様は、ほとんどホラーの文脈で、『崖の上のポニョ』をさらに不気味にしたような導入だ。
導入の設定だけではない。読者を引き込むようなわかりやすいストーリーがあるわけでもなく、世界設定を直接的に説明することがほとんどなく描きたい空想の世界を描き続けていく点でも本作はポニョに似ている。
『崖の上のポニョ』をはじめて観たときに、いちばん「描きたいもの描きすぎでしょ」と思ったシーンは、宗介のお母さんが車で押し寄せる怪物のような津波から来るまで逃げるシーンだったが、『君たちはどう生きるか』はそんあポニョのカーレースのシーンがずっと続くような映画だった。
飛行と落下と地下
『紅の豚』を例に出すまでもなく、宮崎駿は飛行に憧憬を抱き、飛行機を飛行機を理想化して描く作家だった。しかし、前作の『風立ちぬ』では零戦を描くことでその飛行機の負の側面に向き合い、爽快な飛行シーンを描くことを封印した。
そして、『君たちはどう生きるか』では飛行の描かれ方がさらに反転する。飛行は爽快さとはかけ離れた、不気味なものとして描写されている。地下世界の鳥たちはおどろおどろしく、ペリカンはこの世のものとは思えない気の狂い方をしている。
眞人やその父が「美しい」と言う飛行機も、翼がない窓ガラスの骨組みだけだ。
また、「落下」の恐怖が執拗なまでに繰り返し描かれているのも本作の特徴だ。
この「飛行」と「落下」の描かれ方を見て、宮崎駿の苦しみながら創作する姿勢を重ねてしまうのは考えすぎだろうか。
創作の世界と言ってもいい地下の世界で、憧れの世界のように飛ぶことはできず、落下の恐怖だけが残る。
地に足をつけるのが難しい創作世界で、周りとの対立を繰り返しきた宮崎駿をどうしても思い浮かべてしまう。
アオサギは飛ぶ力を失ってはじめて眞人と友達になることができた。
憧憬の世界を捨て、気持ちが悪くても理想化されない他者と「友達」となることを選ぶラストシーンは、それが宮崎駿から発せられたものだからこそ重く響く。
宮崎駿のエゴ
『君たちはどう生きるか』の公開初週は異様な状況で、鳥の絵一枚しかほとんど事前情報がない状況だった。これほどプロモーションされていない映画も珍しい。
だからこそ、公開されてすぐに観にいく人たちのモチベーションは、みんなこの映画が「ジブリ作品だから」、「宮崎駿の10年ぶりの映画だから」でしかありえない。
そして、「宮崎駿の映画だから」で観に行った人は、どうしてもそこに描かれているものと宮崎駿を結びつけてしまう。これまでの宮崎駿の作品を思い浮かべてしまう。『君たちはどう生きるか』という挑発的なタイトルとも相まって、宮崎駿の人生と結びつけてしまう。
自分はそこに宮崎駿のエゴを感じてしまった。
ズルいと思う。どうしても宮崎駿の膨大な作品群を幻視せざるをえないのだ。
そうした「宮崎駿の映画だから」という色眼鏡を差し引いて、テキスト論的に純粋な気持ちでこの作品に向き合ったらどうだろう。やはりその色眼鏡を外すと、地下世界の幻想世界の描写や、ストーリーテリングの強度は、手放しで傑作だといえるものではないのではないかと思う。過去の傑作に比べると明らかに弱いところはある。
しかし、どのみち幼い時に誕生日にトトロのビデオをもらったときから、あるいは金曜ロードショーで何度もジブリ作品を観てきた世代の我々には、そうしたクリーンな眼でこの作品を観ることはできない。
だからこそ、宮崎駿のズルさとエゴに真正面からぶつかるしかない。
『君たちはどう生きるか』はそのエゴが、ある種の快さを生む、そんな映画だと個人的には思った。
なんといっても、我々はこれまでずっと宮崎駿の作品を熱中して観てきたのだから。
最後の作品となる可能性の高い映画だ。
フォロワーに、この作品を「宮崎駿の生前葬」だと言っていた人がいたが、まさしくそうだろう。創作に呪われ、何度も筆を折ってきた宮崎駿も、次回作がある可能性はかなり低い。
そんな巨匠の最後かもしれない作品なら、監督の強烈なエゴを全身で浴びるのも悪くない。
あなたは「エッチな小説を読ませてもらいま賞」を見届けたか
あなたは先日の文学フリマ東京で、「ラブホテル」と書かれたTシャツを着た人物がピンク色をしたハートラミネ加工の表紙のアンソロジーを頒布していることに気がついただろうか。
そう、その人物が頒布していた同人誌こそ『エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー ~さあ、エッチになりなさい~』である。

あなたは見届けただろうか。
【エチ賞 委託・通販情報(5/28)】
— はこびてゃ(鴨川エッチ研究会・Crazy Gal Orchestra) (@violence_ruin) 2023年5月28日
◎埼玉
小声書房さまhttps://t.co/KYcvjvcIky
つまづく本屋 ホォルさまhttps://t.co/OLLTTrtk43…
◎大阪
犬と街灯さま
*グッズ・コピ本取扱https://t.co/dSBzPzcMcP
toi booksさまhttps://t.co/5u19BehmtX
◎自家通販 *匿名配送https://t.co/vRv12pWt7q
「エッチな小説を読ませてもらいま賞」は「自分がいちばんエッチだと思う小説」うを募り、それを審査員が独断と偏見によって選ぶ、という賞だ。
https://twitter.com/violence_ruin/status/1612464336701894659?s=20https://twitter.com/violence_ruin/status/1612464336701894659?s=20
https://t witter.com/violence_ruin/status/1612464336701894659?s=2
「エッチな小説」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
ほとんどの人は官能小説のようなものを思い浮かべるのではないかと思う。
しかし、「エッチ」は官能だけに留まらない。
「自分がいちばんエッチだと思う小説」な小説を書くという試みは、性的でないものを含め、自分が何に芸術的な「エッチ」を感じるのかと向き合い、それを他者がどう捉えるかと向き合う営みになるだろう。
そうした賞ができたことは素直に嬉しかった。
審査基準が「審査員の独断と偏見」だというのもいい。なにが「エッチ」かは文化や価値観によってとらえられ方が変わる難しい題材だし、「独断と偏見」だと前もって言ってくれていたほうが自由に自分のエッチがぶつけられるだろう。
あとになって指摘を受けたことだが、性癖や嗜好はおろか読者すら絞っていないエッチな小説の賞というのは、あまりない。(中略)先行例と比べたときの特色はおそらく、その間口の広さであろう。審査員に刺さるかどうかはわからないけれどエッチだと思うなら何でも応募してよし、というコンテストは、実は珍しい試みだったのではあるまいか。
『エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー ~さあ、エッチになりなさい~』総評より
審査員の顔ぶれを見ても、安心できる。
少なくとも、マジョリティの性欲を肯定し、マイノリティの性欲を疎外するような賞には絶対にならないだろうと思える。
実際、審査員の一人で、先日「翻訳SFアンソロジー 結晶するプリズム」を編集した井上彼方氏のあとがき「エッチな小説コンテストを安全に開催するために」では読者や編者への配慮に留まらず、投稿者への加害が起こらないよう気を配った経緯が書かれている。
そうした安心感が功を奏したのか、この賞には113編もの応募があったのだそうだ。
きっと、みんな安心して自分の思う「エッチ」をぶつけることができる場所を求めていたのだと思う。
それだけ、この企画は稀有だし、奇跡的なバランスのうえにたまさか成り立った「エッチ」の伝導だったのだと思う。
自分自身も、安心して、無邪気に「エッチな小説」を読むのを楽しみにすることができた。
そうして刊行された『エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー ~さあ、エッチになりなさい~』はやはり素晴らしいものだった。
白眉はやはり大賞のワライフクロウ作「煙滅」だろう。
アイデアのエッチさもさることながら、そのワンアイデアで押し切らない筆力があった。
キッチュなグロテスクさと、語り手の独りよがりな陶酔を描いていながら、それがほとんど嫌味にならず、豊かな酸味のようなものを感じることができた。
また、短い描写ながら、一場面の刹那的なエッチに留まらず、時間の奥行があったのもこの短編をエッチたらしめている所以だろう。収録作のなかで一番エッチの持久力があったものは間違いなくこの「煙滅」だった。
個人的に好みだったのは巨大健造作「したをかむ」。
(1)と(2)の二つの世界に鏡映しのような存在が住む構造は、設定自体がオメガバースのような「エッチ」さがあった。
子どもの目線で語られているのもポイントだ。少し大人の認識とは異なった歪んだ目線からの描写で、描かれる行為はエッチなのに不思議な爽やかさがあった。
子どもの目線であることを考えると、これが架空の世界なのかもわからなくなってくる。最後の方に出てくる現実の出来事との接続はそれを予感させるし、現実世界にも(1)と(2)のような構造は溢れているからだ。
選考では(1)(2)の描写がこの世界を記述する最適解なのかを疑問視する声もあったとのことだが、自分はしっくり来た。
子どもが歪に抽象化した世界なのかもしれない。そう考えると、(1)(2)小学校の学習プリントでよくみた記号のようにも見えてくる。
審査員の方々の文章もとても良かった。
前述の井上彼方氏の「エッチな小説コンテンストを安全に開催するために」は一同人誌作成者として非常にためになった。
橋本輝幸氏の論考「エッチな小説が人々に愛と勇気を与える ――作家チャック・ティングル紹介」も非常に読み応えがあった。
英語圏のこうした現代小説を巡る動向について、これだけの深度で日本語の紹介が書ける書評家を、自分は橋本氏以外に知らない。
Phantonymな日本語
比較的最近発明された英単語にphantonymというのがある。
意味は「よく誤用される言葉」、「その音・読み方のせいでAの意味に思われることが多いが、実際はBの意味である言葉」だ。
初出として挙げられている例を見てみよう。Wikipediaからの孫引きになるが、ここではオバマ元大統領の言葉が例示されている。
The term was coined by Jack Rosenthal in his 2009 article for the NY Times.[1] An example of phantonym usage noted in the article was when Barack Obama said, "I just want to make sure that we're having an honest debate and presenting to the American people a fulsome accounting of what is going on in this program," where he meant "full" instead of "fulsome". Phantonyms are usually commonly confused words.
(拙者訳)
phantonym(幻語)という用語は、2009年のジャック・ローゼンタールによるニューヨーク・タイムズの記事のなかで造られた。phantonymの用例として、記事中ではバラク・オバマの言葉が言及されている。オバマが「私がただ確実に行っていきたいと思うのは、公正なる議論をし、アメリカ国民にこの施策で行われていることについてfulsomeな説明をすることだ」と言ったとき、彼はfulsome(行き過ぎた、不快な)ではなくではなくfull(十分な)の意味を意図していた。phantonymとはよく通俗的に混同される言葉のことだ。
このように、オバマほどの知識人でも、音が似ているせいで全然違う意味であるfullとfulsomeを間違えてしまうというのだ。
ほかによくphantonymとして挙げられる例に
・noisome:noisy「うるさい」と同じ意味に思われがちだが、実際はannoyの関連語で「嫌な臭いの、不快な」の意味。
・enormity :enoormosに関連する「巨大さ」という意味に思われがちだが、本来は「非道さ」の意味(ただし実際は(巨大さ)としての用法も認められている)「
・fortuitous :fortune「幸運」に関連して「幸運な」の意味に思われがちだが、「偶然の」という意味
などがある。
最近できた言葉なのであまり定義も定まっていないようだが、よく誤用される言葉のなかでも「音のせいで誤用されている言葉」と捉えるのがよさそうだ。
もしかしたら英語は接頭辞・接尾辞の影響でphantonymが生まれやすいのかもしれない。
日本語ならよく誤用される「性癖」のように、単語の意味の類推が誤用に繋がることが多いのに対して、英語だと音が誤用に直結するのだろう。
とはいえ、探してみれば日本語にもphantonymと言えるような「音のせいで誤用されている言葉」がある。
たとえば
・すべからく:「すべて」との発音の近さで「すべて、悉く」のように誤用されることがあるが、実際は基本的には「べし」とセットで「当然」の意味
・鑑みる:「考えて」との発音の近さで「鑑みて」は「考えて、考慮して」と誤用されがちだが、実際は「照らして、(他の事例などを)参考にして」の意味
などがあるだろう。
これらは、その誤用の理由が「他に音が似ている間違えやすい言葉があるから」以外に考えにくい。
日本語は音から意味を推測しにくい言語だと思うが、それでも音から意味を誤解してしまうことがある。
英語ならなおさらだろう。そう考えると、2009年までその現象を言い表す語彙がなかったことは少し不思議にさえ思う。
ONE PIECE FILM REDとファミリー(あるいは成熟について)
ONE PIECEの最新映画『ONE PIECE FILM RED』を観てきた。
文句なしに面白く、素晴らしい傑作だった。
大作マンガのスピンオフ的なマンガで、これだけ主要キャラの見せ場をつくり、かつ現実ともコラボしながら元の作品の良さを一切損なわずにこれだけ面白いのは離れ業だと思う。
友人に言うとけっこう意外に思われることもあるが、自分はかなりONE PIECEが好きだ。
意外に思われるのは、自分がかなりの個人主義者で、ONE PIECEの「マイルドヤンキー」的な世界観がミスマッチに見えるからなんじゃないかと思っている。
確かに、一時期はONE PIECEを読んでいてそうした一にも二にも「ファミリー」、「仲間」的な価値観、あるいはルフィの同調圧力やパワハラ性に辟易していたこともあった。
でも、ONE PIECEは今やそうした単純化をはるかに超えたところにあると思うし、100巻を越えてなお新しいものを描き続けている作品だとも思う。この記事ではそこの部分を言語化してみたい。
そしてこの記事は、自分が誕生日になると毎年考える「成熟」についての話でもある。(過去にはこんな記事やこんな記事を書いた。)
ONE PIECE FILM REDとファミリー
FILM REDの構造から話をはじめよう。FILM REDは徹底して非セカイ系的な物語だ。映像電伝虫を通して自分の歌を公開し、個人として直接的に「世界」とつながろうとしたウタは作品のなかで否定されることになる。
ウタの配信が「ファミリー」を経由しない、個人によるものだからだ。ONE PIECE作中では徹底して個と普遍の無媒介なつながりは排除される。
少し穿った見方をすれば、かなりヘーゲル哲学っぽい世界観だ。
ヘーゲルといえば個人と世界の媒介をなすものは「国家」というイメージがあるが、『法の哲学』を読むと「国家」の前にまず「家族」があると思う。ヘーゲルにとっての成熟は普遍とつながることであり、それには家族があって、国家が大切であることは前にも書いた。
(とはいえ、ONE PIECEでは「国家」はほとんど機能しない。国家は海賊たやすく滅ぼされる弱者(ファミリーより弱い中間体)か、あるいは悪政を行う悪者など機能不全に陥ったもの(ファミリーより信頼できない中間体)としてしか書かれない。それは最大限に拡大された国家である「世界政府」でさえそうだ。普遍と個との媒介はあくまでファミリーであって、国家にはなりえない。これはONE PIECEが現代で広く受け入れられている理由の一つだと思っている)
とにかく、ONE PIECEの世界では徹底して世界とつながるには「ファミリー」が必要になる。
こうした無媒介の排除をONE PIECEの欠点として批判するのは簡単だ。とくに作中でウタの歌を担当したAdoはニコニコ動画の歌い手出身で、そうした人物に「配信で世界とつながることを否定するような役をやらせるのか」という見方ができないこともない。Adoはインタビューで「コンプレックスの大きい陰な人間なので、社会に出てもまともに働ける自信がなかった」と言っているような人物なのに、一見すると「ネットでなんかやる前にまずはファミリーや社会と向き合え」と言うような、ネットでの活動をある意味否定しているようにも思える。
しかし、そうした批判は単純すぎる。
拡大されたファミリー
初期のONE PIECEでは、「ファミリー=海賊団」だったと思う。
「ファミリー」といえば自分のすぐ近くにいる人たちで、自分たちと考えを異にする人たちは「ファミリー」の外に置かれるような側面もあった。
しかし、そうした仲間意識は次第に変容していき、新世界編以降はとくに顕著だが、明らかに「ファミリー」が拡大される。
同じ海賊団の仲間だけではなく、他の海賊団の船員たちも巻き込んで、麦わらの一味が目的に向けて動くようになる。あるいは海賊ですらないワノ国の人たちや、価値観を全く異にするシーザー・クラウンのような人物とも行動するようになる。
この「ファミリー」の拡大は、船員や義兄弟といった強いつながりを超え、ルフィの考える「仲間」はグラノヴェッターの「弱い紐帯」のような領域まで広がっているように見える。
『FILM RED』もこの側面が顕著だ。世界のために様々な価値観を持つ人たちが集まり、共闘する。そこには敵の海賊団の一味もいる。結果的には同じ目標を目指すとはいえ、そのつながりは非常にゆるやかなものに見える。
そう考えると、ONE PIECEのファミリーを経ないと世界とつながることができない世界観は自然に思えてくる。
作曲も、映画製作も、一人で行うよりも共同で制作した方ができることは増える。
Adoも歌ってみたの投稿からスタートしたのであって、歌ってみたの裏には作詞作曲した人がいて、ボーカロイドを作った人がいる。
そうした人たちをドライに「共同制作者」と呼ぶか、熱っぽく「仲間」とか「ファミリー」と呼ぶかの違いでしかないんじゃないかという気がしてくる。
媒介と成熟
ヘーゲルにとって成熟は媒介を通じて「市民」になることだった。
自分は無媒介な世界とのつながりも否定したくはないのだけれど、それでも社会人経験も増えてきて「やっぱり人と何かやった方ができることが圧倒的に多いなあ」と思うようになった。
特に自分にとって大きい変化はバベルうおを始めたことだ。自分一人では絶対にできなかったことがメンバーのおかげでできている。バベルうおメンバーという中間体を通して、あるいは「BABELZINE」を買ってく読んでれる人たちまで含めた弱い紐帯をも通して、普遍とのつながりを得ているように感じている。
最近のワンピースを読んでいて、この感覚を思い出す。
ONE PIECEも少しずつ「成熟」しているように思う。
自分が物語としての「成熟」を感じる点は二つ。
一つは前述の「多様なつながりの肯定」だ。(そのせいで血縁的なつながりを否定しがちになっているような気もするが。サンジの家族とか、ヤマトとか)
もう一つは覇道の否定だ。
ONE PIECEの大海賊時代は「覇道」、つまり力で他者を支配することの肯定だった。物語の中盤には覇気という、遠隔的な力で他者をひれ伏せさせる覇道の象徴のような能力まで登場した。
しかし、直近のONE PIECEはこうした覇道を否定する方向に向かっている。
それがルフィの「支配なんかしねェよ この海で一番自由な奴が海賊王だ」というセリフだし、最新刊でのルフィの新しい能力だと思う。『FILM RED』のウタの能力もそうだろう。
もちろん自分はONE PIECEを全肯定はしない。だが、そのファミリーを媒介にする一貫性と、物語としての成熟を見て、美しいと感じている。