トマト倉庫八丁目

小説、漫画、映画、ゲームなどなど

映画『君たちはどう生きるか』と宮崎駿のエゴ

 

 6歳の誕生日、自分が買ってもらったのは『となりのトトロ』のVHSだった。

自分はもらったVHSを、何度も何度も、テープがすり切れるまで観た。

 ふわふわで愛らしいトトロが、大人にはわからない神秘の世界に誘ってくれるこの作品が好きで好きでたまらなかった。

 

 しかし、『君たちはどう生きるか』で観客を神秘の世界に誘うのは、可愛らしいトトロではなく、気持ちの悪いアオサギだった。

 いきなり引っ越したばかりの家で怪異が起きるが、その怪異は「まっくろくろすけ」のような愛らしいものではない。不気味なアオサギが、少しずつ日常を侵食していく。屋根裏からギシギシと足音が聞こえたりと、その様は、ほとんどホラーの文脈で、『崖の上のポニョ』をさらに不気味にしたような導入だ。

 導入の設定だけではない。読者を引き込むようなわかりやすいストーリーがあるわけでもなく、世界設定を直接的に説明することがほとんどなく描きたい空想の世界を描き続けていく点でも本作はポニョに似ている。

 

 『崖の上のポニョ』をはじめて観たときに、いちばん「描きたいもの描きすぎでしょ」と思ったシーンは、宗介のお母さんが車で押し寄せる怪物のような津波から来るまで逃げるシーンだったが、『君たちはどう生きるか』はそんあポニョのカーレースのシーンがずっと続くような映画だった。

 

飛行と落下と地下

 『紅の豚』を例に出すまでもなく、宮崎駿は飛行に憧憬を抱き、飛行機を飛行機を理想化して描く作家だった。しかし、前作の『風立ちぬ』では零戦を描くことでその飛行機の負の側面に向き合い、爽快な飛行シーンを描くことを封印した。

 

 そして、『君たちはどう生きるか』では飛行の描かれ方がさらに反転する。飛行は爽快さとはかけ離れた、不気味なものとして描写されている。地下世界の鳥たちはおどろおどろしく、ペリカンはこの世のものとは思えない気の狂い方をしている。

 眞人やその父が「美しい」と言う飛行機も、翼がない窓ガラスの骨組みだけだ。

 

 また、「落下」の恐怖が執拗なまでに繰り返し描かれているのも本作の特徴だ。

 

 この「飛行」と「落下」の描かれ方を見て、宮崎駿の苦しみながら創作する姿勢を重ねてしまうのは考えすぎだろうか。

 創作の世界と言ってもいい地下の世界で、憧れの世界のように飛ぶことはできず、落下の恐怖だけが残る。

 地に足をつけるのが難しい創作世界で、周りとの対立を繰り返しきた宮崎駿をどうしても思い浮かべてしまう。

 アオサギは飛ぶ力を失ってはじめて眞人と友達になることができた。

 憧憬の世界を捨て、気持ちが悪くても理想化されない他者と「友達」となることを選ぶラストシーンは、それが宮崎駿から発せられたものだからこそ重く響く。

 

 

宮崎駿のエゴ

 『君たちはどう生きるか』の公開初週は異様な状況で、鳥の絵一枚しかほとんど事前情報がない状況だった。これほどプロモーションされていない映画も珍しい。

 だからこそ、公開されてすぐに観にいく人たちのモチベーションは、みんなこの映画が「ジブリ作品だから」、「宮崎駿の10年ぶりの映画だから」でしかありえない。

 そして、「宮崎駿の映画だから」で観に行った人は、どうしてもそこに描かれているものと宮崎駿を結びつけてしまう。これまでの宮崎駿の作品を思い浮かべてしまう。『君たちはどう生きるか』という挑発的なタイトルとも相まって、宮崎駿の人生と結びつけてしまう。

 自分はそこに宮崎駿のエゴを感じてしまった。

 ズルいと思う。どうしても宮崎駿の膨大な作品群を幻視せざるをえないのだ。

 そうした「宮崎駿の映画だから」という色眼鏡を差し引いて、テキスト論的に純粋な気持ちでこの作品に向き合ったらどうだろう。やはりその色眼鏡を外すと、地下世界の幻想世界の描写や、ストーリーテリングの強度は、手放しで傑作だといえるものではないのではないかと思う。過去の傑作に比べると明らかに弱いところはある。

 しかし、どのみち幼い時に誕生日にトトロのビデオをもらったときから、あるいは金曜ロードショーで何度もジブリ作品を観てきた世代の我々には、そうしたクリーンな眼でこの作品を観ることはできない。

 

 だからこそ、宮崎駿のズルさとエゴに真正面からぶつかるしかない。

 『君たちはどう生きるか』はそのエゴが、ある種の快さを生む、そんな映画だと個人的には思った。

 なんといっても、我々はこれまでずっと宮崎駿の作品を熱中して観てきたのだから。

 最後の作品となる可能性の高い映画だ。

 フォロワーに、この作品を「宮崎駿生前葬」だと言っていた人がいたが、まさしくそうだろう。創作に呪われ、何度も筆を折ってきた宮崎駿も、次回作がある可能性はかなり低い。

 そんな巨匠の最後かもしれない作品なら、監督の強烈なエゴを全身で浴びるのも悪くない。

あなたは「エッチな小説を読ませてもらいま賞」を見届けたか



  あなたは先日の文学フリマ東京で、「ラブホテル」と書かれたTシャツを着た人物がピンク色をしたハートラミネ加工の表紙のアンソロジーを頒布していることに気がついただろうか。

 そう、その人物が頒布していた同人誌こそ『エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー ~さあ、エッチになりなさい~』である。

 f:id:sawaqo11:20230531021108j:image

 

あなたは見届けただろうか。

 

 「エッチな小説を読ませてもらいま賞」は「自分がいちばんエッチだと思う小説」うを募り、それを審査員が独断と偏見によって選ぶ、という賞だ。

https://twitter.com/violence_ruin/status/1612464336701894659?s=20https://twitter.com/violence_ruin/status/1612464336701894659?s=20

https://t witter.com/violence_ruin/status/1612464336701894659?s=2

  「エッチな小説」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。

 ほとんどの人は官能小説のようなものを思い浮かべるのではないかと思う。

 しかし、「エッチ」は官能だけに留まらない。
 「自分がいちばんエッチだと思う小説」な小説を書くという試みは、性的でないものを含め、自分が何に芸術的な「エッチ」を感じるのかと向き合い、それを他者がどう捉えるかと向き合う営みになるだろう。

 そうした賞ができたことは素直に嬉しかった。

 審査基準が「審査員の独断と偏見」だというのもいい。なにが「エッチ」かは文化や価値観によってとらえられ方が変わる難しい題材だし、「独断と偏見」だと前もって言ってくれていたほうが自由に自分のエッチがぶつけられるだろう。

 

あとになって指摘を受けたことだが、性癖や嗜好はおろか読者すら絞っていないエッチな小説の賞というのは、あまりない。(中略)先行例と比べたときの特色はおそらく、その間口の広さであろう。審査員に刺さるかどうかはわからないけれどエッチだと思うなら何でも応募してよし、というコンテストは、実は珍しい試みだったのではあるまいか。

エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー ~さあ、エッチになりなさい~』総評より

 

 審査員の顔ぶれを見ても、安心できる。
 少なくとも、マジョリティの性欲を肯定し、マイノリティの性欲を疎外するような賞には絶対にならないだろうと思える。

 実際、審査員の一人で、先日「翻訳SFアンソロジー 結晶するプリズム」を編集した井上彼方氏のあとがき「エッチな小説コンテストを安全に開催するために」では読者や編者への配慮に留まらず、投稿者への加害が起こらないよう気を配った経緯が書かれている。

 そうした安心感が功を奏したのか、この賞には113編もの応募があったのだそうだ。

 きっと、みんな安心して自分の思う「エッチ」をぶつけることができる場所を求めていたのだと思う。

 それだけ、この企画は稀有だし、奇跡的なバランスのうえにたまさか成り立った「エッチ」の伝導だったのだと思う。

 自分自身も、安心して、無邪気に「エッチな小説」を読むのを楽しみにすることができた。




 そうして刊行された『エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー ~さあ、エッチになりなさい~』はやはり素晴らしいものだった。

 

 白眉はやはり大賞のワライフクロウ作「煙滅」だろう。
 アイデアのエッチさもさることながら、そのワンアイデアで押し切らない筆力があった。
 キッチュなグロテスクさと、語り手の独りよがりな陶酔を描いていながら、それがほとんど嫌味にならず、豊かな酸味のようなものを感じることができた。

 また、短い描写ながら、一場面の刹那的なエッチに留まらず、時間の奥行があったのもこの短編をエッチたらしめている所以だろう。収録作のなかで一番エッチの持久力があったものは間違いなくこの「煙滅」だった。

  

 個人的に好みだったのは巨大健造作「したをかむ」。

 (1)と(2)の二つの世界に鏡映しのような存在が住む構造は、設定自体がオメガバースのような「エッチ」さがあった。
 子どもの目線で語られているのもポイントだ。少し大人の認識とは異なった歪んだ目線からの描写で、描かれる行為はエッチなのに不思議な爽やかさがあった。

 子どもの目線であることを考えると、これが架空の世界なのかもわからなくなってくる。最後の方に出てくる現実の出来事との接続はそれを予感させるし、現実世界にも(1)と(2)のような構造は溢れているからだ。

 選考では(1)(2)の描写がこの世界を記述する最適解なのかを疑問視する声もあったとのことだが、自分はしっくり来た。
 子どもが歪に抽象化した世界なのかもしれない。そう考えると、(1)(2)小学校の学習プリントでよくみた記号のようにも見えてくる。

 

 審査員の方々の文章もとても良かった。

 前述の井上彼方氏の「エッチな小説コンテンストを安全に開催するために」は一同人誌作成者として非常にためになった。

 橋本輝幸氏の論考「エッチな小説が人々に愛と勇気を与える ――作家チャック・ティングル紹介」も非常に読み応えがあった。
 英語圏のこうした現代小説を巡る動向について、これだけの深度で日本語の紹介が書ける書評家を、自分は橋本氏以外に知らない。

 

Phantonymな日本語

 比較的最近発明された英単語にphantonymというのがある。

 意味は「よく誤用される言葉」、「その音・読み方のせいでAの意味に思われることが多いが、実際はBの意味である言葉」だ。

 

 初出として挙げられている例を見てみよう。Wikipediaからの孫引きになるが、ここではオバマ元大統領の言葉が例示されている。

 

 The term was coined by Jack Rosenthal in his 2009 article for the NY Times.[1] An example of phantonym usage noted in the article was when Barack Obama said, "I just want to make sure that we're having an honest debate and presenting to the American people a fulsome accounting of what is going on in this program," where he meant "full" instead of "fulsome". Phantonyms are usually commonly confused words.

 

(拙者訳)

 phantonym(幻語)という用語は、2009年のジャック・ローゼンタールによるニューヨーク・タイムズの記事のなかで造られた。phantonymの用例として、記事中ではバラク・オバマの言葉が言及されている。オバマが「私がただ確実に行っていきたいと思うのは、公正なる議論をし、アメリカ国民にこの施策で行われていることについてfulsomeな説明をすることだ」と言ったとき、彼はfulsome(行き過ぎた、不快な)ではなくではなくfull(十分な)の意味を意図していた。phantonymとはよく通俗的に混同される言葉のことだ。

Phantonym - Wikipedia

 

 このように、オバマほどの知識人でも、音が似ているせいで全然違う意味であるfullとfulsomeを間違えてしまうというのだ。 

 

 ほかによくphantonymとして挙げられる例に

 

noisome:noisy「うるさい」と同じ意味に思われがちだが、実際はannoyの関連語で「嫌な臭いの、不快な」の意味。

enormity :enoormosに関連する「巨大さ」という意味に思われがちだが、本来は「非道さ」の意味(ただし実際は(巨大さ)としての用法も認められている)「

fortuitous :fortune「幸運」に関連して「幸運な」の意味に思われがちだが、「偶然の」という意味

 

などがある。

最近できた言葉なのであまり定義も定まっていないようだが、よく誤用される言葉のなかでも「音のせいで誤用されている言葉」と捉えるのがよさそうだ。

 

 もしかしたら英語は接頭辞・接尾辞の影響でphantonymが生まれやすいのかもしれない。

 日本語ならよく誤用される「性癖」のように、単語の意味の類推が誤用に繋がることが多いのに対して、英語だと音が誤用に直結するのだろう。

 とはいえ、探してみれば日本語にもphantonymと言えるような「音のせいで誤用されている言葉」がある。

 たとえば

 

すべからく:「すべて」との発音の近さで「すべて、悉く」のように誤用されることがあるが、実際は基本的には「べし」とセットで「当然」の意味

鑑みる:「考えて」との発音の近さで「鑑みて」は「考えて、考慮して」と誤用されがちだが、実際は「照らして、(他の事例などを)参考にして」の意味

 

 などがあるだろう。

 これらは、その誤用の理由が「他に音が似ている間違えやすい言葉があるから」以外に考えにくい。

 日本語は音から意味を推測しにくい言語だと思うが、それでも音から意味を誤解してしまうことがある。

 英語ならなおさらだろう。そう考えると、2009年までその現象を言い表す語彙がなかったことは少し不思議にさえ思う。

 

ONE PIECE FILM REDとファミリー(あるいは成熟について)

 ONE PIECEの最新映画『ONE PIECE FILM RED』を観てきた。

 文句なしに面白く、素晴らしい傑作だった。

 大作マンガのスピンオフ的なマンガで、これだけ主要キャラの見せ場をつくり、かつ現実ともコラボしながら元の作品の良さを一切損なわずにこれだけ面白いのは離れ業だと思う。

 

 友人に言うとけっこう意外に思われることもあるが、自分はかなりONE PIECEが好きだ。

 意外に思われるのは、自分がかなりの個人主義者で、ONE PIECEの「マイルドヤンキー」的な世界観がミスマッチに見えるからなんじゃないかと思っている。

 確かに、一時期はONE PIECEを読んでいてそうした一にも二にも「ファミリー」、「仲間」的な価値観、あるいはルフィの同調圧力パワハラ性に辟易していたこともあった。

 でも、ONE PIECEは今やそうした単純化をはるかに超えたところにあると思うし、100巻を越えてなお新しいものを描き続けている作品だとも思う。この記事ではそこの部分を言語化してみたい。

 

 そしてこの記事は、自分が誕生日になると毎年考える「成熟」についての話でもある。(過去にはこんな記事こんな記事を書いた。)

 

 

ONE PIECE FILM REDとファミリー

 FILM REDの構造から話をはじめよう。FILM REDは徹底して非セカイ系的な物語だ。映像電伝虫を通して自分の歌を公開し、個人として直接的に「世界」とつながろうとしたウタは作品のなかで否定されることになる。

 ウタの配信が「ファミリー」を経由しない、個人によるものだからだ。ONE PIECE作中では徹底して個と普遍の無媒介なつながりは排除される。

 少し穿った見方をすれば、かなりヘーゲル哲学っぽい世界観だ。
 ヘーゲルといえば個人と世界の媒介をなすものは「国家」というイメージがあるが、『法の哲学』を読むと「国家」の前にまず「家族」があると思う。ヘーゲルにとっての成熟は普遍とつながることであり、それには家族があって、国家が大切であることは前にも書いた。
 (とはいえ、ONE PIECEでは「国家」はほとんど機能しない。国家は海賊たやすく滅ぼされる弱者(ファミリーより弱い中間体)か、あるいは悪政を行う悪者など機能不全に陥ったもの(ファミリーより信頼できない中間体)としてしか書かれない。それは最大限に拡大された国家である「世界政府」でさえそうだ。普遍と個との媒介はあくまでファミリーであって、国家にはなりえない。これはONE PIECEが現代で広く受け入れられている理由の一つだと思っている)
 
 とにかく、ONE PIECEの世界では徹底して世界とつながるには「ファミリー」が必要になる。

 こうした無媒介の排除をONE PIECEの欠点として批判するのは簡単だ。とくに作中でウタの歌を担当したAdoはニコニコ動画の歌い手出身で、そうした人物に「配信で世界とつながることを否定するような役をやらせるのか」という見方ができないこともない。Adoはインタビューで「コンプレックスの大きい陰な人間なので、社会に出てもまともに働ける自信がなかった」と言っているような人物なのに、一見すると「ネットでなんかやる前にまずはファミリーや社会と向き合え」と言うような、ネットでの活動をある意味否定しているようにも思える。

 しかし、そうした批判は単純すぎる。

 

拡大されたファミリー

 初期のONE PIECEでは、「ファミリー=海賊団」だったと思う。
「ファミリー」といえば自分のすぐ近くにいる人たちで、自分たちと考えを異にする人たちは「ファミリー」の外に置かれるような側面もあった。

 しかし、そうした仲間意識は次第に変容していき、新世界編以降はとくに顕著だが、明らかに「ファミリー」が拡大される。
 同じ海賊団の仲間だけではなく、他の海賊団の船員たちも巻き込んで、麦わらの一味が目的に向けて動くようになる。あるいは海賊ですらないワノ国の人たちや、価値観を全く異にするシーザー・クラウンのような人物とも行動するようになる。

 この「ファミリー」の拡大は、船員や義兄弟といった強いつながりを超え、ルフィの考える「仲間」はグラノヴェッターの「弱い紐帯」のような領域まで広がっているように見える。
 『FILM RED』もこの側面が顕著だ。世界のために様々な価値観を持つ人たちが集まり、共闘する。そこには敵の海賊団の一味もいる。結果的には同じ目標を目指すとはいえ、そのつながりは非常にゆるやかなものに見える。

 そう考えると、ONE PIECEのファミリーを経ないと世界とつながることができない世界観は自然に思えてくる。

 作曲も、映画製作も、一人で行うよりも共同で制作した方ができることは増える。
 Adoも歌ってみたの投稿からスタートしたのであって、歌ってみたの裏には作詞作曲した人がいて、ボーカロイドを作った人がいる。

 そうした人たちをドライに「共同制作者」と呼ぶか、熱っぽく「仲間」とか「ファミリー」と呼ぶかの違いでしかないんじゃないかという気がしてくる。

 

媒介と成熟

 ヘーゲルにとって成熟は媒介を通じて「市民」になることだった。

 自分は無媒介な世界とのつながりも否定したくはないのだけれど、それでも社会人経験も増えてきて「やっぱり人と何かやった方ができることが圧倒的に多いなあ」と思うようになった。

 特に自分にとって大きい変化はバベルうおを始めたことだ。自分一人では絶対にできなかったことがメンバーのおかげでできている。バベルうおメンバーという中間体を通して、あるいは「BABELZINE」を買ってく読んでれる人たちまで含めた弱い紐帯をも通して、普遍とのつながりを得ているように感じている。

 最近のワンピースを読んでいて、この感覚を思い出す。

 
 ONE PIECEも少しずつ「成熟」しているように思う。
 自分が物語としての「成熟」を感じる点は二つ。

 一つは前述の「多様なつながりの肯定」だ。(そのせいで血縁的なつながりを否定しがちになっているような気もするが。サンジの家族とか、ヤマトとか)

 もう一つは覇道の否定だ。

 ONE PIECEの大海賊時代は「覇道」、つまり力で他者を支配することの肯定だった。物語の中盤には覇気という、遠隔的な力で他者をひれ伏せさせる覇道の象徴のような能力まで登場した。
 しかし、直近のONE PIECEはこうした覇道を否定する方向に向かっている。

 それがルフィの「支配なんかしねェよ この海で一番自由な奴が海賊王だ」というセリフだし、最新刊でのルフィの新しい能力だと思う。『FILM RED』のウタの能力もそうだろう。

 もちろん自分はONE PIECEを全肯定はしない。だが、そのファミリーを媒介にする一貫性と、物語としての成熟を見て、美しいと感じている。

わくわく近況報告

●お仕事が燃えている

 普通のサラリーマンが一生に一度出くわすか出くわさないかみたいな案件にブチ当たっている。
 しかもかなり爆心地に近いところで。
 
 忙しいだけでなく、精神的にもかなりキツいことをやらされているのがツラい。
 具体的には言うことができないので、たとえ話を使うと、大地震のさなかに津波を恐れながらテトリスをやりつつご近所さんたちが避難する用のボートをつくっているような状態だ。
 何をやっているかわからないだろう? 
 自分でも何をやっているのかわからない。ぼうぼうに燃えていることだけは伝わるだろうか。
 
 機密情報なので誰にも愚痴を言えないのが輪をかけてツラい。社会んちゅの愚痴はすぐ機密情報に抵触してしまうのだ。
 唯一愚痴を言えるほど信頼している友人は、コミュニケーションがそれほど得意でない友人のなかでも屈指の聞き下手なのでしんどい。
 話を聞いてくれるだけでとてもとてもありがたいのだけれど。
 
 未訳文学を紹介する記事も止まってしまっていて不甲斐ない。BABELZINE Vol.2に向けた動きは水面下で着々と進んでいるので乞うご期待。
 
 ところで、会社に入ってもう2年がたつ。
 働いてわかったのは、この社会では無産階級である限り、無限に速度が上がっていくランニング・マシンに乗り続けるか、そこから降りて落ちぶれるかの二択しかないということだ。このランニング・マシンから逃れられるのは資産階級だけだ。新自由主義は最悪。革命を起こすしかない。
 
 

 

●ウマにハマっている

 時間がないのに、ご多分に漏れずウマにハマっている。
 2018年末ごろ、オタクとしてのプライドを失いほとんど声優ラジオしか聞かなくなっていた友人が、アニメの『ウマ娘 プリティーダービー』を強く推していて、「へっ、オタクはなんでもかんでも美少女にしやがって。しかも競争馬を美少女化するなんてイロモノが過ぎるだろ」と思ったのを覚えている。
 その友人が「ホラ、面白いって言ったでしょ」とドヤ顔しながら言ってくる姿が脳裏にありありと浮かぶので、表立ってハマったとは全然言っていない。が、見事にハマって今はうまぴょいしている。信頼している人が勧めてるものは素直に見聞きしてみるべきですね。
 
 「ソシャゲってやり込もうと思うと時間も金もかかるし最悪」とか思いつつ、めちゃくちゃ楽しんでいるのだから始末に負えない。でも、すごく出来のいいゲーム。ストーリーを楽しむだけなら無課金で十分なのがありがたい。
 
 
 アニメも一期まで見た。
 最終回は余計だったんじゃないの、と思わなくもないけれど、サイレンススズカの話は素晴らしい。
 サイレンススズカの名前はウマにハマってから初めて知ったのだけれども、そんな自分でもサイレンススズカの最期のレースは涙なしには見られない。いわんや、当時の競馬ファンにとっては筆舌に尽くしがたい悲劇だったろう。
 孫引きになるが、騎乗していた武豊の著書から、20年経っても癒えない傷がうかがえる。
 
 サイレンススズカとの思い出は、たくさんあります。語るべきことも、まだ、まだ、あります。でも、今もまだ、その傷口は膿んでいて、瘡蓋をはがすと、血が噴き出してきます。忘れることは生涯ないと思いますが、いつか……そう、いつか……傷が癒え、瘡蓋を剥がしても血がにじむ程度になることがあったら、そのときは、彼の話をしたいと思います。
 
 武豊『名馬たちに教わったこと ~勝負師の極意III~』(2018)

 

 
 しかし、フィクションでなら、あの瞬間に閉ざされたサイレンススズカの「続き」を描くことができる。サイレンススズカを、復帰レースに出走させてやることができる。
 癒えない傷を癒えないまま語り直すことは、文学の持つ基本的かつ大切な側面だと思う。嘘でしか語れないものがあるから、我々は小説を読むし、映画やアニメを観る。あまりにも強い悲しみや怒りは、通常のやり方では語ることができない。通常のやり方では語れないものを語ることができるのが、物語だと思う。
 もし、「ウマ娘」で描かれた物語が、「ウマ娘」ではなく、「競走馬」の話であったら、この話を描くことはできなかっただろう。あまり指摘されることはないんじゃないかと思うけれど、「ウマ娘」は、競走馬を美少女化することによって、通常のやり方では語れないものを語ることに成功していると思う。これが、ウマ娘が単なる「イロモノ」で終わっていない一つの理由だろう。もちろん、ことに美少女じゃなくてもよかったとは思うが。
 でも、『ウマ娘 プリティーダービー』1期 第7話以降は、競走馬の物語としてのままでは絶対に成り立たなかったはずなのだ。
 
 武豊は、「ウマ娘」の物語については一切語っていないと思うが、彼が「ウマ娘」公式のプロモーターを務めているのは、この語り直しが成功している一つの証左だと思う。
 
 そんなこんなで、ウマのゲーム・アニメは、実際の競馬にも興味が湧いてきてしまうので沼が深い。
 競馬は、配合に配合を重ねて脚が早いことにだけ長けたウマを作っていく野蛮な競技だと思っていたけど、調べていくとなかなか奥深い世界だ。今でも野蛮だとは思っているけれども、しかし、野蛮の一言で切り捨てられないものがある。
 なにしろ、サラブレッドの美しさは多少の違和感を封じ込めてしまう強烈な説得力を持っている。この美しさのためならば、いろいろな犠牲があってもいいんじゃないかと思えてしまうほどに。それほど、美しいものが見たい、強いもの・速いものが見たい、という人間の欲求は強い。
 しかし、その美しさが、多くのウマの屍の上に築かれているのも確かなのだ。
 
 つい先日、みんな大好きなブログ「名馬であれば馬のうち」が、ウマを育てることの残酷さにスポットを当てた記事を書いていた。オススメの記事です。

今週の海外短編:ローカス誌のおすすめリストの話、Andy Weir "The Egg"

 海外未訳短編ディグのモチベーションのために、毎週土曜日の夕方に短編をいくつか選んでを紹介していく試みシリーズ。

 

 

 ローカス誌のジャンル別オススメリストの話

 

 2/1に、ローカス誌が選ぶオススメリストが公開された。

locusmag.com

 短編部門では、前回紹介したRebecca Campbell "An Important Failure" や、前々回紹介したM. Rickert "The Little Witch"も取り上げられている。
 しばらくはこのリストの未読から拾い読みしていこうかなと思う。

 

Maria Haskinsについて

 

 リストのなかで、個人的に注目している作家はMaria Haskins。おそらく日本では全く紹介されていないと思うけど、幻想的な短編を得意とする実力のある作家だと思う。Haskinsの"Brightest Lights of Heaven"は女の子2人の青春×ホラー短編で、藤野可織を思いだすような巧さのある傑作だった。これは実は『BABELZINE』Vol.1で翻訳したいと思い作者にメールを送るも、翻訳の許可を得ることはできなかったという経緯がある。

 

firesidefiction.com 

 ローカスのリストにあったHaskinsの作品が"Six Dreams About The Train"。列車をめぐる6つの夢の断章を通じて、語り手と"You"の関係が仄めかされる、美しいショートショート

 

www.flashfictiononline.com

 

Andy Weir "The Egg"
 アンディ・ウィアー「卵」

 

 ショートショートといえば、最近『火星の人』のアンディ・ウィアーが「卵」というショートショートをホームページで発表していることを知った。しかも、キッチリ日本語訳までついている。

www.galactanet.com

 ぜんぜん話題になっているイメージがなかったのでビミョウな作品なのかと思ったら、これがすごく面白かった(なんでみんな教えてくれなかったんですか?)。奇想の切れ味と、この短さだからこそ許される壮大さが詰まった作品で、個人的にはショートショートの一つの理想とさえ思う。

 ウィアーは底抜けに優しくて、どこまでも人間の可能性を信じている(信じたい)作家なのかもしれないと思う。

 

 実はこの作品を知ったのはYouTubeの"The Egg"を映像化した作品からだった。サイエンス分野の動画を数多く手掛けるKurzgesagtによってアニメ化されているのだが、このアニメーションが非常に美しい。この動画もぜひ観てほしい。

 

www.youtube.com

 

 

 

今週の海外短編:Rebecca Campbell "An Important Failure" ,Andrew Dana Hudson & C.Y. Ballard ”Your Mind is the Superfund Site”

 毎週土曜日の夕方にその週に読んだ短編からいくつか選んでを紹介していく試みシリーズ。

 

Rebecca Campbell "An Important Failure" (Clarkesworld Magazine)
 レベッカ・キャンベル「ある大きな失敗」

 

 あらすじ:楽器職人である主人公メイソンは、天才少女デルガドに出会い、至高のバイオリンを作ろうと決意する。材料のために国立公園の大木を切ったり数々の犯罪を犯しながら、最高の音に執着して理想の木を追い求めるメイソン。しかし、時は無情にも過ぎていき、年月とともにデルガドも才能の輝きを失っていくのだった。

 

 かなり面白かった。ストーリー自体はシンプルで、美しいものに執着する男がいろいろなものを犠牲にバイオリンをつくろうとするだけ。素晴らしいのは時が過ぎていくにつれて次第に失われていく輝きと、そのなかでも最後まで残る美しさの描写だ。
 話が進むにつれてメイソンもデルガドも老いていってしまい、そこに通奏低音として山火事、洪水、病原菌などといった世界の悪化が加わる。舞台は2020年代から数十年くらいの近未来カナダで、バイオリン製作しか頭にないメイソンの視点で進むせいで世界の悪化は霞んでるが、かなりカタストロフィックな状況になっているはず。若さが失われ、世界も次第に劣化するなかで、それでも失われない美しさに心を打たれた。
 カナダの自然の、匂いと音に溢れた豊かな描写や、主人公たちのヒッピーっぽい生活の描写もいい。

 

clarkesworldmagazine.com

 

Andrew Dana Hudson & C.Y. Ballard "Your Mind is the Superfund Site" (Lightspeed Magazine)
 アンドリュー・ダナ・ハドスン&C・Y・バラード「マスコット意識汚染(あなたの意識は汚染地帯になっている)」

 

 あらすじ:不眠症に悩まされる人が急増するボストン。住民たちは、企業のマスコットたちが出現する悪夢を見ていると言うのだ。主人公のトレーシーと“半覚醒師”アリーヤのタッグは、住民たちの集合的無意識の世界に入って、悪夢の原因を探る。どうやらマスコットたちの影に「ブランドの王」と呼ばれる存在がいるらしいが……。

 

おもしろかった。これを読んだのはRikka Zineさんのツイートがきっかけなんだけど、12月のうちに読んでおけばよかったかも。

 

 

 夢に階層があるのは映画『インセプション』っぽいし、夢の中に入ったあとは意識が混濁して自分の使命を忘れてしまいかねないところは舞城王太郎原作のアニメ『id:INVADED イド:インヴェイデッド』っぽかったり。マスコットたちのグロテスクでユーモラスな描写はニコニコ動画のMADのようなキャッチーさがありながらも、キャラクターたちが夢に出てくるロジックはRikka Zineさんも言っているようにしっかりとしたSFとしてのロジックがあり、引き込まれる。

 主人公がマスコットキャラクターたちをボコボコに殺戮していくシーンが一つの見せ場なんだけど、日本人には馴染みがないキャラクターも多く、いまいちノリきれないところが悲しい。でもマスコットたちを一つ一つ調べて、アメリカの商業文化に触れながら読んでいくのも、それはそれで楽しい。読みながら調べたキャラクターたちをメモ代わりに下に貼っておいた。

 

www.lightspeedmagazine.com

 


アメリカの自動車保険会社GRICOのトカゲ(ヤモリ?)

スナック菓子「チートス」のキャラクター、チェスター・チーター、スケベ

M&M'sのあいつら、手足をもがれる

保険会社Progressiveの架空のセールスパーソンFlo、保険のことばっか考えてる

ネスレのウサギ

P&Gのブランドのマスコット、ミスター・クリーン

粉末ジュース、クールエイドのマスコット、クールエイドマン

シリアルのキャラクター、キャプテン・クランチ

ミスター・ピーナッツ