トマト倉庫八丁目

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雑記:再び、成熟について

 「成熟」と国家、家族、社会について

 誕生日になると、いつも成熟についてぼんやりと考える。
 4年前の誕生日にはこんな記事を書いたりした。
 
 成熟を定義するのが非常に難しい時代だと思う。
 4年前も言及したけれど、モデルケースがあまりにもないのだ。ポストモダンの時代に大きな物語が消失し、虚構の時代の果てに中くらいの大きさの物語もあらかた力を失った。大学を出て大企業に入り終身雇用に守られて安心な老後を過ごすなんてお伽噺に執着している人なんかほとんどいない。良くも悪くも多様な人生の可能性が拓かれ、道標が失われ、「成熟」が何かわからなくなった。
 「結婚していないなんて成熟してない証拠だ」とか、「子どもを産み育ててこそ成熟」といった言説は、今やとても許されるものではないだろう。もちろん昔でも許されなかったかもしれないが、それは現代の目から過去を眺めているからそう思うのであって、人生に道筋が有力だった時代にはその道中をどこまで進んだかを自分の成熟のマイルストンにすることはそれほど不自然ではなかったのではないかと思う。
 例えば、ヘーゲルなんかを読むと、平気で「家族をつくり、精神的陶冶によって社会市民になり、国家の一員になることが人間の義務」みたいなことを書いてある。
 
 国家は、実体的意志の現実性であり、この現実性を、国家的普遍性にまで高められた特殊的自己意識のうちにもっているから、即自かつ対自敵に理性的なものである。この実体的一体性は絶対不動の自己目的であって、この目的において自由はその最高の権利を得るが、他方、この究極目的も個々人に対して最高の権利をもつから、個々人の最高の義務は国家の成員であることである。
ヘーゲル『法の哲学』第三部 倫理 §258

 

  ざっくり言うと、客観的普遍たる世界と、主観的特殊なる個人の矛盾を弁証法的に解決するには、家族や国家といった中間が媒介として必要ということなのだろう。
 確かに、中間を経ず直接普遍とつながる欲望はセカイ系的だし、「幼稚」と言ってしまっていいのかもしれない。しかし、家族や共同体などの媒介を経ず、直接普遍とつながるのは本当に無理なのだろうか。普遍との直接的なつながりは、よく神秘主義的な思想と批判されるものだけれど、個人主義の時代ではまともに構想されてもおかしくないようにも思う。
 コロナウイルスによって世界中の人が国際的な移動をやめても、先進国の消費はいまだグローバルに思える。一昨日僕の家に届いた本も、最近買ったスマホも海外から届いたものだ。個人の消費がグローバルな資本主義を動かしている現在は、ヘーゲルの考えた世界とはずいぶん違う形をしているのではないだろうか。
 

「成熟」と消費、グローバリゼーションについて

 学部生のころ、ベンジャミン・バーバーの『消費が社会を滅ぼす?!――幼稚化する人びとと市民の運命』という本を読んだのを覚えている。煽情的なタイトルだが、著者はウェーバー系の政治学者で、中身は結構カッチリしている。
 この本の内容をザックリ要約すると、以下のようになるだろう。
 
 資本主義はウェーバーが言うようにプロテスタンティズムの禁欲の精神から起こった。しかし、今やグローバル化する資本主義は完全に生産よりも消費が優位になっており、初期の精神は完全に失われているようにみえる。現在の資本主義を覆っているのは、プロテスタント的な倫理に入れ替わった、「幼稚エートス」ともいうべきものなのである。なせならば、大量生産社会が極限まで進んだ先進世界では、人々にモノが行き渡りすぎて、企業の成長がどこかで行き詰ってしまう。モノがあふれた世界で、人々に更なる消費をさせるには、人々に欲望を惹起させ幼稚化させるしかない。これにより、現在の先進社会の人々の心を「幼稚エートス」を覆うことになった。社会を観察してみると、今までになかった幼稚な欲望に溢れているように見える。
 
 中心の議論はなかなか面白いものの、当時の自分が読んでいて非常に不満だったのは、著者が「幼稚」に何の定義も与えていなかったことである。バーバーは映画やサブカルチャー領域までやり玉にあげて「幼稚」なるものを抜き出すのだが、しかし何をもって「幼稚」とするのかを明らかにしなければ「自分が気にくわないものは幼稚、現代社会は幼稚になっていてケシカラン」というオッサンの愚痴レベルの議論にまで堕してしまうと思ったからだ。
 まあ、でもヘーゲルウェーバーなんかを念頭に置くと、消費が優位になった世界を「幼稚」と形容したくなる気持ちはわからなくもない。国家に属することなり、禁欲を実践することなり、普遍的なものと何らかの形でつながることが「成熟」なら、無媒介に消費を行う個人は「幼稚」かもしれない。たぶんバーバー自身はそこまで考えていないだろうけど。 
 
 たくさん脱線したが、何が言いたいかというと、媒介を通じて普遍とつながることが難しくなった現代では、西洋思想の伝統から自由になった「成熟」が構想されてもいいのではないかということだ。無媒介的に普遍とつながるものとして、かつてはインターネットに一抹の希望があったかもしれない。しかし、そんな希望を持てた時代は終わってしまったなか、西洋的な成熟とは別の形の「成熟」が見当もつかないのも事実である。
 
 

「成熟」と分節化について

 もう一つ「成熟」について気になるのが「分節化」である。
 日本語では成熟した大人を「分別がある」と言うことがある。
 知覚の基本は、「違いがわかる」ということであり、何かが「わかる」とは「分かつ」ことだろう。人間は生まれたときは白紙であり、世界はまったく分節化されていない混沌として見えているはずだが、そこから母親を知覚し、父親を知覚し、世界のなかから自分が知覚できるものを少しずつ切り出していき、成長していく。言語を覚え、分節化ができるようになっていき、「成熟」していくのだ。
 では、分節化が進み、いろいろなことが「分かる」ようになり、分別を身につけることこそが「成熟」なのだろうか?
 
 分節化というのは、またしても西洋哲学の基本でもある。分節化された言葉、名辞(Terrm)を最小単位として構築された論理学(Term logic)こそ、アリストテレス由来の伝統論理学だ。分節化されていない世界は、西洋人にとって非常に気持ちが悪い。
 しかし、この分節化は東洋思想とは相容れない部分がある。名辞論理を、鈴木大拙は「分別の論理」として批判した。というのも、仏教では「分別」は妄念であり、無分節の「真如」こそが真相だからだ。井筒俊彦も『意識と本質』で言っていたが、禅では無分節へ至ることが修行者の内的成熟へ至る最も重要なプロセスらしい。
 西洋的伝統とは違う形の「成熟」、やはり仏教思想か?! いやあ。
 

 

 

 

法の哲学II (中公クラシックス)

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意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)