映画『君たちはどう生きるか』と宮崎駿のエゴ
6歳の誕生日、自分が買ってもらったのは『となりのトトロ』のVHSだった。
自分はもらったVHSを、何度も何度も、テープがすり切れるまで観た。
ふわふわで愛らしいトトロが、大人にはわからない神秘の世界に誘ってくれるこの作品が好きで好きでたまらなかった。
しかし、『君たちはどう生きるか』で観客を神秘の世界に誘うのは、可愛らしいトトロではなく、気持ちの悪いアオサギだった。
いきなり引っ越したばかりの家で怪異が起きるが、その怪異は「まっくろくろすけ」のような愛らしいものではない。不気味なアオサギが、少しずつ日常を侵食していく。屋根裏からギシギシと足音が聞こえたりと、その様は、ほとんどホラーの文脈で、『崖の上のポニョ』をさらに不気味にしたような導入だ。
導入の設定だけではない。読者を引き込むようなわかりやすいストーリーがあるわけでもなく、世界設定を直接的に説明することがほとんどなく描きたい空想の世界を描き続けていく点でも本作はポニョに似ている。
『崖の上のポニョ』をはじめて観たときに、いちばん「描きたいもの描きすぎでしょ」と思ったシーンは、宗介のお母さんが車で押し寄せる怪物のような津波から来るまで逃げるシーンだったが、『君たちはどう生きるか』はそんあポニョのカーレースのシーンがずっと続くような映画だった。
飛行と落下と地下
『紅の豚』を例に出すまでもなく、宮崎駿は飛行に憧憬を抱き、飛行機を飛行機を理想化して描く作家だった。しかし、前作の『風立ちぬ』では零戦を描くことでその飛行機の負の側面に向き合い、爽快な飛行シーンを描くことを封印した。
そして、『君たちはどう生きるか』では飛行の描かれ方がさらに反転する。飛行は爽快さとはかけ離れた、不気味なものとして描写されている。地下世界の鳥たちはおどろおどろしく、ペリカンはこの世のものとは思えない気の狂い方をしている。
眞人やその父が「美しい」と言う飛行機も、翼がない窓ガラスの骨組みだけだ。
また、「落下」の恐怖が執拗なまでに繰り返し描かれているのも本作の特徴だ。
この「飛行」と「落下」の描かれ方を見て、宮崎駿の苦しみながら創作する姿勢を重ねてしまうのは考えすぎだろうか。
創作の世界と言ってもいい地下の世界で、憧れの世界のように飛ぶことはできず、落下の恐怖だけが残る。
地に足をつけるのが難しい創作世界で、周りとの対立を繰り返しきた宮崎駿をどうしても思い浮かべてしまう。
アオサギは飛ぶ力を失ってはじめて眞人と友達になることができた。
憧憬の世界を捨て、気持ちが悪くても理想化されない他者と「友達」となることを選ぶラストシーンは、それが宮崎駿から発せられたものだからこそ重く響く。
宮崎駿のエゴ
『君たちはどう生きるか』の公開初週は異様な状況で、鳥の絵一枚しかほとんど事前情報がない状況だった。これほどプロモーションされていない映画も珍しい。
だからこそ、公開されてすぐに観にいく人たちのモチベーションは、みんなこの映画が「ジブリ作品だから」、「宮崎駿の10年ぶりの映画だから」でしかありえない。
そして、「宮崎駿の映画だから」で観に行った人は、どうしてもそこに描かれているものと宮崎駿を結びつけてしまう。これまでの宮崎駿の作品を思い浮かべてしまう。『君たちはどう生きるか』という挑発的なタイトルとも相まって、宮崎駿の人生と結びつけてしまう。
自分はそこに宮崎駿のエゴを感じてしまった。
ズルいと思う。どうしても宮崎駿の膨大な作品群を幻視せざるをえないのだ。
そうした「宮崎駿の映画だから」という色眼鏡を差し引いて、テキスト論的に純粋な気持ちでこの作品に向き合ったらどうだろう。やはりその色眼鏡を外すと、地下世界の幻想世界の描写や、ストーリーテリングの強度は、手放しで傑作だといえるものではないのではないかと思う。過去の傑作に比べると明らかに弱いところはある。
しかし、どのみち幼い時に誕生日にトトロのビデオをもらったときから、あるいは金曜ロードショーで何度もジブリ作品を観てきた世代の我々には、そうしたクリーンな眼でこの作品を観ることはできない。
だからこそ、宮崎駿のズルさとエゴに真正面からぶつかるしかない。
『君たちはどう生きるか』はそのエゴが、ある種の快さを生む、そんな映画だと個人的には思った。
なんといっても、我々はこれまでずっと宮崎駿の作品を熱中して観てきたのだから。
最後の作品となる可能性の高い映画だ。
フォロワーに、この作品を「宮崎駿の生前葬」だと言っていた人がいたが、まさしくそうだろう。創作に呪われ、何度も筆を折ってきた宮崎駿も、次回作がある可能性はかなり低い。
そんな巨匠の最後かもしれない作品なら、監督の強烈なエゴを全身で浴びるのも悪くない。