大人になること
誕生日だ。
20歳を越えてから誕生日はあまり嬉しいものではなくなってきた。
自分の前に広がる可能性が、部分的には、少しずつ狭くなっているのを感じているのかもしれない。
大正時代くらいまでは数え年が一般的だったから、正月と一緒に歳が増えるのを祝うことができたのだろうけど、満年齢での誕生日を祝う理由は、やや薄い。
ちなみに、僕が大好きな山下和美の漫画『天才 柳沢教授の生活』には、60歳前後の大学教授2人が「なぜ人は誕生日を祝うのか」について延々議論するだけの回がある。最高。
小学生のころは、中学生がものすごく大人に見えていたはず。
誕生日になると、そういう懐かしい感覚を思い出す。
もちろん、今は中学生がまだまだ子供だということを知っているし、中学生のころの自分は今よりずっと幼かった。
でも、20歳を過ぎて中学生の頃よりはマシになったとはいえ、自分が大人になれているのかは疑問だ。
20歳を過ぎたというのに、自分が大人になったという実感がほとんどわかない。
そういうわけで、「いかにして大人になるか」ということを、ちょくちょく考えるようになった。
今更になって、大人はこうだとか、子供はこうだとか考えているのはすごく恥ずかしいのだけれど。
20歳になれば、自然と大人になるのかと、何となくそんな風にずっと思っていたけど、全然そんなことはなくて、いまだに子供のままの自分に愕然とする。
今まで成熟だと思っていたものは、本当の成熟じゃなかった。
年齢を重ねて「こういうときにはこうする」といったテンプレートのデータベースは昔より充実してきたかもしれないけど、それは本当の成熟じゃない。
自分は、まだ全然成熟できていない。
そんな中で読んだ内田樹の文章はおもしろかった。
つまり、「成熟した市民」というのは「飢餓ベース」「貧窮ベース」で、「子ども」は「安全ベース」「飽食ベース」であり、資本主義社会は大量消費をする「子ども」を要請し、日本は「子ども」ばかりになったというのだ。
「「成熟した市民」は、その定義からして、他者と共生する能力が高く、自分の資産を独占せず、ひろく共用に供する人間だからである」という部分はよくわからないし、他にもツッコミどころはあるだろうが、次の部分はわかる気がした。
「子ども」たちが「子ども」であるのは、実は長い歳月のあいだ「子ども」しか見たことがなく、成熟のロールモデルを知らないからである。
申し訳ないが、親も近所のおじさんおばさんも学校の先生もバイト先の店長もテレビに出てきてしゃべる人たちも、みんな「子ども」だったのである。
「子ども」以外見たことがない人がどうして「大人」になれよう。
この部分を読むまで、自分をとりまく社会自体が未成熟な可能性を考えていなかった。
「大人」になろうとしても、周りの大人たちが「大人」じゃなければ「大人」にはなれないのは当たり前だ。
最近、大人だと思っていた人や世界が、ひどく子供っぽい、未成熟なものだった例をいくつも見たり聞いたり読んだりしたので、なおさら腑に落ちるところがあった。
とはいえ、「周りの人たちはもっと成熟しろ」みたく考えるのは、それこそ啓蒙みたいなレベルから抜け出せないようにも思う。
もし仮に周りの人たちが「子ども」ばかりなら、その中で身を処していかなきゃならないし、その中で自分は何とか「大人」になる必要があるのだろう。
そんなことを考えながら『天才 柳沢教授の生活』を読み返して、誕生日の夜を過ごしている。
柳沢教授は、僕にとっての中学時代からずっと「成熟のロールモデル」だったと気が付いた。