トマト倉庫八丁目

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【バカミス列伝 序文】なぜバカミスなのか

 今年の京都大学SF・幻想文学研究会が夏コミで頒布するWORKBOOK110号は、「バカミス列伝」です。

 自分も何本か寄稿させていただきました。

 

 その中で「なぜSF研でバカミスなのか」という題で序文を書かせていただきましたので、宣伝を兼ねてその序文だけ、ここにも載せさせていただきます。

 京大SF研は3日目(日)東ニ16aです。何卒よろしくお願いいたします。

 

 ※WORKBOOK110号に載っているものに、少しだけ注を追加しました。

 

 「なぜSF研でバカミスなのか」

 

 WORKBOOK一一〇号をお届けする。いつもなら序文など抜きにしていきなりレビューへ移るところだが、「なぜSF研の会誌でバカミスなのか」については説明が必要だろうと思い、筆を執らせていただいた。

 まずご説明させていただくと、 本誌は、「バカミス」を、ジャンルというよりも読者にとっての「読みのモード」として捉えることによって、「バカミス」をキーワードにしてミステリの多様性を楽しむための“ガイドブック”を目指したものだ。「バカミス」の言葉を作った小山正が、「バカミス」とは「ひとつのジャンルではなくミステリーを楽しんだり味わったりするための概念」と言っている通り、「バカミス」をジャンルとして規定するのは難しい。しかし、ミステリ小説のなかには、「端正な本格ミステリ」を期待して読むとつまらないが、「バカミス」だと思うと楽しめる、というような作品も確かに存在する。そうした作品群を紹介するガイドを、従来のミステリ批評から少し離れた立場で提供することができないだろうかと考えたのである。その意味において、本誌は個々の作品を「バカミス」として紹介するものではない。実際に、個人的には「バカミス」とは思わないものも多く紹介されている。あくまで「バカミス」と一般に呼ばれることもある作品を紹介することで、作品に触れる姿勢を自由にするための企画なのだ。レビューされている作品を手に取って読みながら、愛すべき「バカミス」なのかどうか判定していただけたら幸いだ。

 「バカミス」についてより詳しく知るために、その成り立ちを少しだけおさらいしておこう。前述の通り、「バカミス」は小山正が一九九四年に初めて使用した言葉で、*1当時はいわゆる「奇妙な味」*2の作品を指して使われていた。しかし、次第に「バカミス」は、その意外な結末にリアリズムが破られるような「そんなバカな」と叫びたくなるミステリや、面白さを重視した「バカバカしい」ミステリを指すようになっていく。そんなバカミス小史にとってエポック・メイキングだったのは、九七年の蘇武健一による『六枚のとんかつ』ではないだろうか。第三回メフィスト賞を受賞した『六枚のとんかつ』は、当時ミステリ評論の総元締め的ポジションにいた笠井潔から「たんなるゴミである」と批判された。当時のメフィスト賞は、森博嗣清涼院流水というミステリ界の大型新人をデビューさせた賞として注目を集めており、そんなミステリの最前線から「バカミス」と呼ばれる作品が登場したことが、一部の読者を怒らせたのだろう。このころから「バカミス」には「おバカ」なミステリという意味合いを越えて、「ダメミス」を指す、蔑称としての意味合いがそれまでより強くなってしまったのではないだろうか。

 ここに来て、「バカミス」は使用者や状況によって意味の変わる玉虫色の用語になってしまった。「バカミス」の多義性は、「バカ」の語感の強さとも相まって、一部のミステリファンがこの言葉の使用自体を忌避する理由でもある。ところで、上述の笠井の『六枚のとんかつ』批判には、笠井が展開していた「構築なき脱構築」(創造なき破壊)派への批判が関係しているという指摘がある。*3この指摘はおそらく正鵠を射ているだろう。笠井は当時、「謎―解決」の論理を意図的に破ったミステリ作品の一部を、ミステリというジャンルの腐敗を招くとして批判したのだ。だがしかし、清涼院以降の「脱格」(脱本格)系ミステリならまだしも、「バカミス」にジャンルを破壊したり腐敗させたりするだけの力は、おそらくない。しかし、私は「バカミス」には、普通のミステリからはみ出る「バカ」としての独特の輝きがあるはずだと信じるのだ。

 では、この輝きを捉え、「バカミス」を真正面から扱うにはどうすればいいのか。これには、「バカミス」の多義性や、批評の政治的文脈から離れた視点も必要なのではないかと考えている。そしてその一歩引いた視点というのは、SF読者による視点であってもいいのではないのだろうか。本誌の執筆陣の多くは「バカミス」の用語が誕生した一九九四年にはまだ産まれてもおらず、また笠井潔が「本格ミステリ第三の波」*4の終息を宣言した二〇〇六年以降に読書経験を積んできた読者たちだ。加えて、ことさら「普通の本格」や「端正な本格」に親しんでいるわけでもない。しかしSF読者は、奇抜な展開や今までにない発想には、人一倍敏感ではないかとも思うのだ。

 語弊を恐れずに言えば、元来、本格ミステリというジャンルの根底には、ある種の「バカバカしさ」が横たわっている。この「バカバカしさ」を、巽昌章は、推理小説の「ふるさと」から響き続ける「思いついちゃったから書いちゃったよーん」的なあほらしさ、と表現している。巽の言う「ふるさと」とは、「一個の小説が泡のような思いつきに還元されてしまう、身も蓋もない思考に支配された世界」でもあり、そこにおいては、到底「バカミス」とは呼べないような重厚な作品にも「思いついたよーん」という非情な声がこだまするという。そして、こうした「バカバカしさ」を産むのは「トリックを中心に考える姿勢」、より広く正確に言うなら「ネタ中心主義」であると言う。そう、言うまでもなくSFにとっても、この巽が言う「ふるさと」からこだまする「思いついちゃったから書いちゃったよーん」という声や、「ネタを喜ぶ無邪気でお馬鹿な」姿勢は決して無関係ではない。祖先を一部同じくするミステリとSFには、共に「ふるさと」において「バカバカしさ」が常にこだましている。この「ふるさと」から響き続ける声を、ミステリとSFが本質的に持ってしまう「バカバカしさ」を受け止めるためにも、その「バカ」の極北をきっちりと見つめる視線が必要なのではないだろうか。

 

 

参考文献

巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』二〇〇七年、講談社

小山正編『バカミスじゃない!?―史上空前のバカミス・アンソロジー』二〇〇七年、宝島社

笠井潔『探偵小説と叙述トリック ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』二〇一一年、東京創元社

 

*1:このミステリーがすごい! '95年度版』1994、宝島社

*2:ミステリやSF、ホラー、怪奇小説の近接分野ではあるものの、そのどれにも分類できないような特異な小説のこと。共通する特徴として、読後に不気味な割り切れなさを残すことがある。

*3:こころの問題 | BBS『アレクセイの花園』 | 1684参照

*4:島田荘司らによって準備され、一九八七年の綾辻行人のデビューを機に巻き起こった、日本における本格ミステリの復興。思想的には、七十年代までを中心とする松本清張らによる社会派推理小説との決別が特徴。新本格ムーブメント。