トマト倉庫八丁目

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今週の海外短編:Lavie Tidhar "Judge Dee and the Limits of the Law", M. Rickert “The Little Witch”, など

 海外短編ディグりのモチベーションを保つために、毎週土曜日の夕方にその週に読んだ短編からいくつか選んでを紹介していこうと思う。
 今週はファンタジー、ホラー多め。

 

 

Lavie Tidhar "Judge Dee and the Limits of the Law"
 ラヴィ・ティドハー「ジャッジ・リーと法の限界」

 『完璧な夏の日』のラヴィ・ティドハーの最新短編。

 

 吸血鬼のジャッジ・リーとその人間のパートナー、ジョナサンの冒険譚。
 吸血鬼は人間を喰らい、そしてそれは罪にもならないが、吸血鬼を殺した吸血鬼はジャッジ・リーに裁かれることになる。吸血鬼バロン男爵のもとに訪れたリーとジョナサンは、バロン男爵の弟が殺されたことを知る。元人間で弟の妻の吸血鬼、クィーン・イザベラが弟を殺したと主張するバロン男爵。イザベラのもとに向かうリーとジョナサンは、法で裁くことのできない犯罪を目の当たりにすることになる。

 

 人外と人間のコンビが好きなオタクなので面白く読めた。短編一つでは食い足りないので、シリーズ化してほしい。
 トリックなどの仕掛けはミステリファンにはちょっと食い足りないところが多し、無理があるんじゃないかと感じた部分もあったが、それでもキャラクターの魅力で楽しく読める。
 

www.tor.com

 

P H Lee "The Vampire of Kovácspéter"
 P・H・リー「コヴァチペテルの吸血鬼」

 毎年若い娘がヴァンパイアに連れて行かれる小さな町、コヴァチペテル。毎年の惨劇にしびれを切らした住民は、ヒーローに助けを求める。とうとうやってきたヒーローはヴァンパイアの住む古城へと向かい、そこでヴァンパイアが娘をさらう理由を知ることになる。

 

 吸血鬼つながりで読んでみたが、これはあまり面白くなかった。というか、どこに面白さを感じればいいのかわからないまま読み終わってしまった感じ。ヴァンパイアが娘をさらう理由も、ヒーローの設定ももうひとひねり、ふたひねりくらいほしい。P・H・リーの作品でいまだに当たりを引けていないので、単純にこの作家が自分に合っていないだけかもしれない。

 

www.lightspeedmagazine.com

 

 

M. Rickert "The Little Witch"
 M・リッカート「リトルウィッチ

 

 ハロウィンになると主人公の家へ毎年お菓子をもらいにやってくる、赤いブーツを履いた魔女の仮装の女の子。その少女は、毎年全く見た目が変わらず、歳を取っていないように見えるのだった――。
 年を取るとともに偏屈になり孤独を深めていく主人公は、あるハロウィンの夜、誰もお菓子を貰いにこなかったことに気がつく。悲しみにくれる主人公だったが、夜半に目覚めると、枕元にあの成長しない不思議な少女が立っていた。

 主人公は少女と暮らすことになり、季節の移り変わりのなか、少女とともに最期の青春を迎えることになる。

 

 やや話がとっ散らかっている印象だが、これは面白かった。語り手(主人公)が怖いタイプのホラーでもある。結局何が起きたのかはよくわからない部分も多いが、主人公の孤独と、少女との彩りに満ちた暮らしの対比が美しい。

 

www.tor.com

 

 

 ディグりの合間の息抜きに、橋本輝幸さんがSFファン交流会で紹介されていたオススメリストの短編を拾い読みしているけど、どれもこれも面白い。
 今週はMatthew Kressel"The Meeker and the All-Seeing Eye"を読んだけど、これもめちゃくちゃ面白かった。グロテスクだけどコミカルな描写からはじまって、宇宙の壮大な核心へと一気につながっていくところに感動する。

 

こんな感じで、毎週何編か紹介していけたらな、と思う。けっこう大変だけど。

雑記:再び、成熟について

 「成熟」と国家、家族、社会について

 誕生日になると、いつも成熟についてぼんやりと考える。
 4年前の誕生日にはこんな記事を書いたりした。
 
 成熟を定義するのが非常に難しい時代だと思う。
 4年前も言及したけれど、モデルケースがあまりにもないのだ。ポストモダンの時代に大きな物語が消失し、虚構の時代の果てに中くらいの大きさの物語もあらかた力を失った。大学を出て大企業に入り終身雇用に守られて安心な老後を過ごすなんてお伽噺に執着している人なんかほとんどいない。良くも悪くも多様な人生の可能性が拓かれ、道標が失われ、「成熟」が何かわからなくなった。
 「結婚していないなんて成熟してない証拠だ」とか、「子どもを産み育ててこそ成熟」といった言説は、今やとても許されるものではないだろう。もちろん昔でも許されなかったかもしれないが、それは現代の目から過去を眺めているからそう思うのであって、人生に道筋が有力だった時代にはその道中をどこまで進んだかを自分の成熟のマイルストンにすることはそれほど不自然ではなかったのではないかと思う。
 例えば、ヘーゲルなんかを読むと、平気で「家族をつくり、精神的陶冶によって社会市民になり、国家の一員になることが人間の義務」みたいなことを書いてある。
 
 国家は、実体的意志の現実性であり、この現実性を、国家的普遍性にまで高められた特殊的自己意識のうちにもっているから、即自かつ対自敵に理性的なものである。この実体的一体性は絶対不動の自己目的であって、この目的において自由はその最高の権利を得るが、他方、この究極目的も個々人に対して最高の権利をもつから、個々人の最高の義務は国家の成員であることである。
ヘーゲル『法の哲学』第三部 倫理 §258

 

  ざっくり言うと、客観的普遍たる世界と、主観的特殊なる個人の矛盾を弁証法的に解決するには、家族や国家といった中間が媒介として必要ということなのだろう。
 確かに、中間を経ず直接普遍とつながる欲望はセカイ系的だし、「幼稚」と言ってしまっていいのかもしれない。しかし、家族や共同体などの媒介を経ず、直接普遍とつながるのは本当に無理なのだろうか。普遍との直接的なつながりは、よく神秘主義的な思想と批判されるものだけれど、個人主義の時代ではまともに構想されてもおかしくないようにも思う。
 コロナウイルスによって世界中の人が国際的な移動をやめても、先進国の消費はいまだグローバルに思える。一昨日僕の家に届いた本も、最近買ったスマホも海外から届いたものだ。個人の消費がグローバルな資本主義を動かしている現在は、ヘーゲルの考えた世界とはずいぶん違う形をしているのではないだろうか。
 

「成熟」と消費、グローバリゼーションについて

 学部生のころ、ベンジャミン・バーバーの『消費が社会を滅ぼす?!――幼稚化する人びとと市民の運命』という本を読んだのを覚えている。煽情的なタイトルだが、著者はウェーバー系の政治学者で、中身は結構カッチリしている。
 この本の内容をザックリ要約すると、以下のようになるだろう。
 
 資本主義はウェーバーが言うようにプロテスタンティズムの禁欲の精神から起こった。しかし、今やグローバル化する資本主義は完全に生産よりも消費が優位になっており、初期の精神は完全に失われているようにみえる。現在の資本主義を覆っているのは、プロテスタント的な倫理に入れ替わった、「幼稚エートス」ともいうべきものなのである。なせならば、大量生産社会が極限まで進んだ先進世界では、人々にモノが行き渡りすぎて、企業の成長がどこかで行き詰ってしまう。モノがあふれた世界で、人々に更なる消費をさせるには、人々に欲望を惹起させ幼稚化させるしかない。これにより、現在の先進社会の人々の心を「幼稚エートス」を覆うことになった。社会を観察してみると、今までになかった幼稚な欲望に溢れているように見える。
 
 中心の議論はなかなか面白いものの、当時の自分が読んでいて非常に不満だったのは、著者が「幼稚」に何の定義も与えていなかったことである。バーバーは映画やサブカルチャー領域までやり玉にあげて「幼稚」なるものを抜き出すのだが、しかし何をもって「幼稚」とするのかを明らかにしなければ「自分が気にくわないものは幼稚、現代社会は幼稚になっていてケシカラン」というオッサンの愚痴レベルの議論にまで堕してしまうと思ったからだ。
 まあ、でもヘーゲルウェーバーなんかを念頭に置くと、消費が優位になった世界を「幼稚」と形容したくなる気持ちはわからなくもない。国家に属することなり、禁欲を実践することなり、普遍的なものと何らかの形でつながることが「成熟」なら、無媒介に消費を行う個人は「幼稚」かもしれない。たぶんバーバー自身はそこまで考えていないだろうけど。 
 
 たくさん脱線したが、何が言いたいかというと、媒介を通じて普遍とつながることが難しくなった現代では、西洋思想の伝統から自由になった「成熟」が構想されてもいいのではないかということだ。無媒介的に普遍とつながるものとして、かつてはインターネットに一抹の希望があったかもしれない。しかし、そんな希望を持てた時代は終わってしまったなか、西洋的な成熟とは別の形の「成熟」が見当もつかないのも事実である。
 
 

「成熟」と分節化について

 もう一つ「成熟」について気になるのが「分節化」である。
 日本語では成熟した大人を「分別がある」と言うことがある。
 知覚の基本は、「違いがわかる」ということであり、何かが「わかる」とは「分かつ」ことだろう。人間は生まれたときは白紙であり、世界はまったく分節化されていない混沌として見えているはずだが、そこから母親を知覚し、父親を知覚し、世界のなかから自分が知覚できるものを少しずつ切り出していき、成長していく。言語を覚え、分節化ができるようになっていき、「成熟」していくのだ。
 では、分節化が進み、いろいろなことが「分かる」ようになり、分別を身につけることこそが「成熟」なのだろうか?
 
 分節化というのは、またしても西洋哲学の基本でもある。分節化された言葉、名辞(Terrm)を最小単位として構築された論理学(Term logic)こそ、アリストテレス由来の伝統論理学だ。分節化されていない世界は、西洋人にとって非常に気持ちが悪い。
 しかし、この分節化は東洋思想とは相容れない部分がある。名辞論理を、鈴木大拙は「分別の論理」として批判した。というのも、仏教では「分別」は妄念であり、無分節の「真如」こそが真相だからだ。井筒俊彦も『意識と本質』で言っていたが、禅では無分節へ至ることが修行者の内的成熟へ至る最も重要なプロセスらしい。
 西洋的伝統とは違う形の「成熟」、やはり仏教思想か?! いやあ。
 

 

 

 

法の哲学II (中公クラシックス)

法の哲学II (中公クラシックス)

 

 

 

意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)
 

 

今更、アドラー心理学がなぜあんなに流行ったのか考えてみる

 

 

『嫌われる勇気』を読む

 ひょんなことから『嫌われる勇気』を読んだ。
 周知の通り、この本は大変なベストセラーで日本国内だけで200万部売れたらしい。単純計算で100人に1人以上が読んでいることになる。韓国でもかなり売れたらしく、大学時代に韓国からの留学生の一人に熱心に勧められたのを覚えている。
 タレントなどの有名人でもない人が書いた本としては異例のベストセラーだろう。普通ではない売れ方だったので、なぜこんなに売れたのかは気になってはいた。で、ネットで『嫌われる勇気』についてちょっと調べたところ、「アドラー心理学では承認欲求を否定する」とあった。ははーん、ナルホド、この「承認欲求の否定」が、現代のSNS疲れした人たちにヒットしたのであるな。そう合点して、「承認欲求なんて存在しないんだ」から漂う自己啓発的な香りから、この本を読むことはないだろうと思っていた。
 しかし、今回職場の人からも勧められたのをキッカケに、アルフレッド・アドラーの英語版Wikipedia記事を読んでみたところ、「目的論」や「全体論」など、自分が研究していた分野的に気になる単語が出てきた。そこで、ようやくこの本を手に取ってみたのである。
 そして読んでみて、アドラー心理学が流行した理由は「承認欲求の否定」とはまた別の側面があるのではないかという気がしてきた。
 

アドラー心理学の「目的論」について

 ざっと読んでみた感想は、考え方としては面白いところもあるけど、これって学問なの? という感じ。もちろん、作者岸見一郎の目線を通して、自己啓発本の体裁をとったものしか読んでいないのだから、学問だと思えなくて当然ではあるのだが、あまりにも「考え方次第なんだ!」という要素が多すぎるのだ。つまり、科学の基本である、研究対象(この場合は人間の心理)を客観的に観察するようなところがまるで無いのである。
 それは、アドラー心理学の世界観の根幹をなすであろう「目的論」の考えによく表れていると思う。つまり、原因→結果の因果律を基本とする自然科学的な認識を否定し、人間の心理を「目的」から遡って捉えているのだ。
 『嫌われる勇気』で説明される、アドラー心理学の「目的論」を要約すると以下のようになるだろう。
 
 アドラー心理学は目的論の立場をとり、フロイト的な原因論を否定する。フロイト的な原因論に基づいて全ての「結果」には「原因」があると考えると、「原因」から必然的に「結果」が生じることになり、未来が不可変な決定論(機械論)に陥ってしまう(自由意志が否定されてしまう)。対してアドラー心理学では「何を目指しているのか」から遡る目的論で考えるため、未来を変える、前に進んでいくことができる。原因→結果の因果律自体を否定するため、アドラー心理学では現在へ影響する原因としての「トラウマ」を否定する。
 
 と、かなり主意主義的な主張だ。これを科学と言っていいかはかなり疑問だが、とは言えこうした考え方はハンス・ドリーシュの新生気論に代表されるように、アドラーが生きた20世紀初頭にはメジャーな考えの一つだった。20世紀初頭は、デカルト以来発展してきた科学的認識である、世界を原因→目的の機械として捉える機械論的自然観への反動があった時代なのだ。つまり、「人間には自由意志があり、目的に向かって生きている素晴らしい存在なのだから、機械のように考えるべきではない!」という思想が目立つようになってきた時期だ。
 アドラー心理学のように生物・人間を目的論的捉える「学問」への批判として、アドラーとほぼ同時代人の田辺元による100年前の文章があるので、ちょっと引用してみたい。
 
 生気論は一種の目的論に外ならない。それは機械論と同じ平面に立つ構成説明の原理でなく、発見統制、意味理解の原理である。換言すれば悟性的認識の原理でなくして、反省的判断力の意味判定の原理である。単なる科学的の知に属するものでなく、知に投射せられた信に属するものである。我々は科学的認識の立場から自然を説明するに飽くまで機械観に立たなければならぬ。目的原因が因果の一項として、機械的因果の連鎖に闖入することは自然科学的認識の廃棄を意味する。
田辺元『カントの目的論』(1924)

 

  目的論は、自然科学的な世界の「説明」を行うものではなく、世界に「意味」を与えるものなのである。目的性は主観的なものでしかないのだから、科学的・客観的に自然を捉えるのであれば機械論的世界観で自然を観察するほかない。客観的な自然そのものに内的な目的を判定できるのか、というところにカントの、そして田辺の議論の面白さがあるが、ともあれ、原因から考える因果律を単純に反転させて目的から考えるのでは、自然科学を放棄してしまっている、というわけだ。
 思えば、自然科学の発展は、この世界から「意味」を消し去ってきた歴史でもあった。マックス・ウェーバーは『職業としての学問』のなかで、この「意味」消失の過程を「魔法からの世界開放(脱魔術化)」と呼んだ。目的論は、それとは逆に「意味」を与えるものであり、反動的な思想だ。しかし、第一次世界大戦後に「生の意義」の問題に直面した西欧では、「意味」を求める学問が流行した。ニーチェがそうだし、ドイツでのキルケゴールの流行がそうだ。もちろん、先にあげたドリーシュの新生気論もその一つである。
 

アドラー心理学の「全体論」について

 アドラー心理学の反機械論科学的な世界観は目的論だけではない。それはその「全体論」においてもそうである。
 アドラー心理学では人間個人を、これ以上分割できない「全体」として捉えるらしい。アドラー心理学は「個人」をこれ以上分割できない単位と捉えるため、個人心理学とも呼ばれる。
 一般的に、全体論を採用するということは、多かれ少なかれ機械論的世界観の特徴である要素還元主義を否定する。アドラー心理学も人間を分割できない「全体」と捉えるということは、細胞や原子、電気信号といったものに分割していく要素還元主義を採用しないということなのだろう。人間個人は「全体」なのであるから、部分部分の細胞や原子などを足し合わせても「全体」としてのはたらきは分からない、という立場のはずだ。
 もちろん、当たり前のこととして、高次の現象・秩序を低次の現象・秩序に還元して説明することは非常に難しい。例えば、経済活動を人間の細胞運動まで還元して説明しようとすることは狂気だろう。経済には経済の現象・秩序があるのだから社会科学が存在するのであって、当たり前の全体論は正統科学と対立するものではない。しかし、そうした当たり前の全体論に対して、「神秘的な全体論」が存在する。生命現象は、物理現象とは違うのだから何か特別な力(=エンテレヒー)が存在するハズだ、それが有機体なのである、という全体論である。アドラー心理学全体論は、そうした当たり前の全体論ではない、「神秘的な全体論」の臭いがする。なぜなら、『嫌われる勇気』を読むかぎり、アドラー心理学は人間に関して、個人という単位より下のレベルでの説明を一切否定してしまっているように見えるからだ。
 
 ちなみに、こうした神秘的な全体論は、シュレーディンガーの講演「生命とは何か」やワトソンとクリックのDNAの二重らせん構造発見を経て下火になっていくが、しかし、アドラーが生きた20世紀初頭にはかなり流行った思想だった。ドリーシュの新生気論も全体論の一種と言っていいと思うし、全体論(Holism)の言葉をつくったヤン・スマッツがそうだ。あるいは生理学の分野ではJ.S.ホールデンといった名前が挙がる。日本でも、ホールデンから強い影響を受けた西田幾多郎の生命論は全体論と言ってしまっていいと思うし、近衛文麿東條英機内閣で文部大臣をやっていた橋田邦彦も生物の「全機性」を掲げる全体論の立場を採っていた。
 
 

2010年代の潮流と「反主知主義」の思想

 と、ここまでアドラー心理学を「こんなの科学(Wissenschaft)じゃない!」とさんざんクサしてきたが、『嫌われる勇気』は自己啓発本なのだから科学じゃなくてもいいじゃん、という向きもあると思う。確かに、考え方として面白いところがあるし、自己啓発のためのものとしてこの本を否定しようとは思わない。けれど、この大ベストセラーが反正統科学的な世界観で貫かれていることには注意が要るだろう。
 ただ、思想史をやっていた人間として面白いと思ったのは、アドラー心理学の思想が20世紀初頭、とくに「戦間期」の思想潮流の影響をかなり受けているところだ。「目的論」も「全体論」もそうだし、もしかしたら本の終盤に出てきた人生の時間を「いま、ここ」の刹那と捉える考え方もそうかもしれない。
 ところで、2010年代の政治状況を「戦間期」に似ていると(井戸端会議レベルで)評した学者は多い。もちろん、ある時代とある時代を取り上げて、その共通の要素を並べただけで「似ている」と断じるのは相当に不誠実な行為だと思うし、慎重にならなければならない。が、2010年代後半は「自国第一主義の拡大」、「世界的な右傾化」、「国際機関の機能不全」などなど、確かに「戦間期っぽい」側面があるのだ。そして、個人的には、2010年代の思想潮流には、かなり「戦間期」っぽい反動があったのではないかと思っている。
 
 上で述べた正統科学的な認識に反動するアドラー心理学の特徴を大雑把にまとめると、「反主知主義的」と言えるのではないかと思う。つまり、科学的な認識の基礎である「知」よりも、「意志」や「感情」を重視するような思想なのだ。『嫌われる勇気』が説明するアドラー心理学のもとでは、すべてが捉え方の問題、信じ方の問題になってしまう。それは田辺が指摘するように、「知」の学問ではなく、知に照射された「信」の学問なのではないかということである。そして、アドラーや田辺が生きた20世紀初頭は、「信」的な、「反主知主義」的な思想が流行った時代であった。
 ここにきて、忘れ去られていたアドラー心理学が2010年代に大流行した理由の、もう一つの仮説にたどり着いた。それは、現代の「反主知主義的」な潮流に呼応したのではないか、というものである。
 
 現代の思想潮流が「反主知主義的」というのはそこまで人口に膾炙してないが、しかし右傾化も伴って、いたるところで「反合理主義的」、「反啓蒙主義的」、「反科学主義的」な思想が噴き出てきているのは確かなんじゃないかと思っている。分かりやすいところでは反知性主義がそうだし、リバタリアニズムもそうだろう。もちろん暗黒啓蒙の流行もそう。(宮台真司の考えを引くのはちょっとどうかと思うこともあるが、)宮台の意見を信ずるなら右傾化そのものも主意主義としての反知性主義の顕れだろう。そして、きっとアドラー心理学の流行も、こうした反主知主義の流れに位置付けられる。
 その裏側にあるのは、人々の「理屈はわかった。でも俺のこの辛い気持ちはどうしてくれるんだ」という感情だ。みんな、形式合理的な世界で合理的に考え、合理的に行動することの限界に気がついている。合理性を重視したところで、自分たちの人生はちっとも救われないからだ。
 しかし、それらが合理主義でがんじがらめになった我々の、資本主義の「鉄の檻」に捉われた我々の「出口」になっているのかどうかは、落ち着いて確かめなければならない。
 
 自分は、アドラー心理学のような「反主知主義」的な思想を見ると、どうしてもウェーバーの講演『職業としての学問』の、結びの言葉を思い出してしまう。ウェーバーは、第一次世界大戦後の混迷のドイツで、「生の意義」を求める青年たちに冷たく言い放つ。主知化と合理化は時代の宿命であり、学問は魔法から解放されたものでなければならない。それに背教しても、出来損ないに終わり、狂信的諸宗派をつくるに終わるだろう、と。そして、
 
 このような時代の宿命に男らしく堪えることのできないものに向かっては、つぎのようにいわれねばならない、かれはむしろだまって、つまり人がよくやるように背教者であることを吹聴して歩くことなく、ただ素直に、またかざり気なく、むかしからの教会の広くまた温かくひろげられた腕のなかへ戻るがいい、と。それはべつにかれにとってむずかしいことではあるまい。(…)われわれはかれがそうしたからといってかれをとがめることはしないであろう。
マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』

 

 と、主知化・合理化に耐えられない者にキリスト教への回帰を勧めているのだ。
 

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気

 

 

 

 

「serial experiments lain」のしおり

 今は昔、大学に入ってからはじめてserial experiments lain を観た僕は、もの凄い衝撃を受けた。「こんなアニメがあるのか」と心から思った。

 興奮した18歳の僕は、みんなにもこのアニメを知ってもらいたい! と思い、サークルで上映会をやることを決意した。

 決して分かりやすいとは言えないアニメ、「なんだかよくわかんなかったね」みたいな感想を持たれたくない、と思った僕は、上映会にあたって、登場人物と用語の紹介をした「『serial experiments lain』のしおり」と題するレジュメまで作った。A4で5ページもあるレジュメだ。気合がすごい。

 レジュメを参加者全員に配り、万全の準備で迎えた上映会だったが、上映後は「これみんなでみるアニメじゃないね……」みたいな感想が出たのを覚えている。当時は若かく、自分の興奮を客観的に見ることができていなかったんだと思う。

 

 その当時の「『serial experiments lain』のしおり」を発掘したので、ブログに載せてみようと思う。今読むとツッコミどころもけっこうあるし、「あれを言っておけばよかったのに」と思うこともたくさんあるけれど、読み返して気づかされる点も多い。まあ、大学一回生が作ったものならこんなもんかな、という気がする。

 というわけで、せっかくなのでほぼそのままのものを公開。十代の自分の熱の記録でもある。

 

(※かなりネタバレしてます)

 

serial experiments lain」のしおり

登場人物

  • 岩倉玲音

 本作の主人公。内気な14歳。瞳孔は常にガン開き。ワイヤードに偏在していた人間の意識の集合が自我を持ったもの。統合失調症の様に描かれている。

  • 岩倉康男

 玲音の仮の父。NAVIオタク。

  • 岩倉美穂

 玲音の仮の母。無表情で怖い。

  • 岩倉美香

 玲音の仮の姉。精神に異常をきたし、モデムのようなものにされちゃう。

  • 瑞城ありす

 玲音の親友。優しい性格で、玲音を心配してくれる。

  • 四方田千砂

 自殺した女の子。

  • タロウ

 クソガキ。

  • ナイツ

 ワイヤードで大きな影響力を持つといわれる算法騎士団。ワイヤードの神を信仰し、情報操作やハードウェア・ソフトウェアの開発を行っていた。「たった一つしかない真実を、事実にする為に 闘っている」。物語の終盤で大半が始末されてしまった模様。構成員はCAT、DUKeなど。

  • ネズミ

 ナビを背負った小汚い男。ナイツに入ろうとするが、ナイツによって始末されてしまう。

  • カール・ハウスホッファ

 謎のゴーグル男その1。背が高いほう。

  • 林随錫

 謎のゴーグル男その2。

  • 黒沢

 橘総合研究所の男。ハウスホッファたちのクライアントであり、英利政美の事件を収拾するかのようにみせかけて英利に協力していた男。

  • 英利政美

 ワイヤードの神を名乗る男。元々は第7のプロトコルを開発しようとしていた橘総合研究所の研究員。人間の個としての存在を否定しようとするが、玲音に打ち負かされ、冴えないサラリーマンになってしまう。

 

 

用語集

 

ワイヤード

 この作品内での情報ネットワークのこと。

リアルワールド

 ワイヤードに対しての現実世界。でも、現実世界ってなんだ? 玲音は言う。「リアルワールドなんて、ちっともリアルじゃない」

ナビ(NAVI)

 パソコンやケータイなどの汎用情報端末の作品内における総称。

アクセラ

 一種のドラッグで。ある種の周波数を出し、ホルモン分泌を促すことで時間の感覚に影響を与え、意識が「加速」したように感じさせる効果がある。

サイベリア

 昼はネットカフェだが、夜はクラブとなるお店。サイゼリヤより民度が低い(偏見)。ダグラス・ラシュコフによる書(翻訳は大森望だ!)の名前で、サイバネティクスサイバーパンクのcyberとシベリアのSiberiaを合わせた造語で「電脳領域」くらいの意味のよう。ラシュコフによれば、モデムを通じて簡単にアクセスできるのがサイベリアだが、ドラッグによるトリップ等によってもサイベリアに到達できるのだとか。

PSYCHE (プシュケ)

 プロセッサ(中央演算処理装置)の一種。メインプロセッサにコネクトすることでナビの性能を飛躍的に上げることができる。名前は古代ギリシア語から来ており日本語では「「魂」等を指す概念。

ファントマ(PHANTOMa)

 ダンジョン型RPGゲーム。セキュリティ・ホールに致命的なバグがあり、プレイヤーの意識がゲーム内に取り残される事故がしばしば起きている。ゲーム内に取り残された人は人形を持った少女に追いかけられたりする。

メタファライズ

 作品内ではワイヤード上の仮想空間に自らの姿を現出させることを言う。チェシャ猫気取りの口が「ここでは耳だけのやつのほうが多いんだぜ」と言うのは、情報を発信できる者が少ないということか。

人類ネオテニー

 ネオテニー幼形成熟)とは性的に成熟しながらも幼生・幼体の性質が残ること。

 人類ネオテニー説は1920年にL.ボルグが提唱した仮説で、顔が平たく体毛が少ない等ヒトがチンパンジーの幼形に似ていることから、ヒトをサルのネオテニーとするもの。ヒトが、親もとを離れ成熟するまでに他の霊長類よりもはるかに長い期間を要するため、サルの幼年時代が延長された結果ヒトという幼形の性質を多く残した生物に進化したと考えるのである。また、成熟するまで長い期間がかかることにより大人として完成するまで学習・習熟の機会が多く与えられるので、ネオテニーたるヒトは知性が高くなったとされる。

 作品内での「ネオテニーたる人類はもう進化しないとする学説」が何かはわからないが、生物としての柔軟性・可変性が高いので進化しないでも適応ができるのがヒトと唱えている学説なのだと思われる。

預言を実行せよ

 岩倉美香を狂わせた言葉。「予言」ではなく「預言」なので神から預かった言葉。「冥府は溢れている、死者共は行き場を失うだろう」という預言も。

◇KIDS (キッズ)

 ホジスン教授が 15 年前に研究していたKIDSシステムのこと。たいていの子供がごく微弱ながら持っている超心理的な能力サイ(psi)をアウターレセプター(頭を覆ってるやつ)によって束ね、黒い箱に集める。 人と人とをつなげ、脳の一部の機能を肥大させるシステム。これを用いてホジスン教授が行ったのがケンジントン実験。脳のシナプス構造の類似として子供の脳同士を繋げたのだと考えられる。

MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)

 宇宙人に関する調査や、宇宙人との接触や交渉を秘密裏に行ってきたとされるアメリカ合衆国政府内の委員会のこと。「ムー」臭がハンパない。

メメックス

 MEMory EXtender、すなわち記憶を拡張させるものの意。ヴァニヴァー・ブッシュによって提唱されハイパーテキストの元となったシステム。ブッシュが想像したメメックスは、個人が所有する全ての本、記録、通信内容などを圧縮して格納できるデバイスで「個人の記憶を拡張する個人的な補助記憶」を提供するもの。

アイソレーションタンク

 被験者に対する外部からの刺激をできる限り遮断する箱。人間感覚が遮断されたらどうなるのかを立証するためにアメリカの脳科学者ジョン・C・リリーが考案。この部屋の液体に浮かんだ人間は、視角、聴覚、温覚をほぼ完全に、重力によって生じる上下感覚をある程度まで遮断される。リリーはLSDでトリップしてこのタンクに入ったりしていたようで、「精神の内面の世界が増幅され、極彩色の色彩や前世体験、宇宙へ飛び出す」と述べている。また、アイソレーションタンクに入ったままLSDを服用することによって地球暗合統制局(ECCO)と呼ばれる存在に遭遇したと主張している。この体験を述べた『バイオコンピューターとLSD』とかいうヤバそうな本があるらしい。

ECCO/ Earth Coincidence Control Office

 ジョン・C・リリーがLSDをキメながらアイソレーションタンクに入ったことでコンタクトしたとかいう地球外存在――地球暗合統制局のこと。ちなみにcoincidenceなので「暗号」ではなく「暗合」。

ザナドゥ計画

 1960年にテッド・ネルソンによって創始された世界初のハイパーテキストプロジェクト。2014年に開発開始から54年間を経てプロジェクトの成果物であるソフトウェア「OpenXanadu」がリリースされた。ザナドゥにはWorld Wide Webには無い利点があり、次世代のハイパーリンクとして普及する日が来るかも(来ない)。

 ネルソンは全ての出版物を電子化して人工衛星を含むサーバーに収め、そのデータ間において双方向的なハイパーリンクが張り巡らされることを構想していた。軌道上に巨大な電子図書館を打ち上げることで、地球上のどこからでも通信できるデータベースを作り、自在に情報にアクセスできるシステムを構築しようとしたらしい。ここでのザナドゥの元の意味は「桃源郷」。

シューマン共鳴

 地球と共鳴する長周波電磁波。かなり胡散臭いが、CiNiiで検索すると50近い論文がヒットする。この作品内では「集合的無意識」と同一視される。生物が太古から浴びてきた電磁波だから生物に何らかの影響を与えているのでは、と言われたり言われなかったりしているみたいだが、このあたりは疑似科学っぽい。

ミーム

 定義はいろいろだが、人から人へとコピーされていく情報を指す。生物を形成する情報である遺伝子の類似から生まれた概念で、文化を形成する情報のこと。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』の最終章で提示した概念。文化も淘汰圧の作用を受けると考える点において、ネオダーウィニズム的。

ニューラルネットワーク

 脳の神経回路の仕組みを模した数学モデル。シナプス結合された人工ニューロンによってコンピュータに学習能力を持たせ、様々な問題を解決するためのアプローチ。

 作品内の「地球規模のニューラルネットワーク」は一個人を一つの神経細胞ニューロン)に見立てて、それらを繋ぎ、地球全体を一つの脳にするもの。

ホムンクルス

 人造人間のこと。英利政美いわく、玲音は人工リボソームによって生み出されたホムンクルスである。この人工リボソームは橘総研が開発したものらしい。玲音の瞳孔がガン開きなのは人造人間だからだと思われる。

リボソーム

 DNAの情報がメッセンジャーRNA(mRNA)に転写されたのち、翻訳(mRNAの遺伝情報を読み取ってタンパク質へと変換する作業)が行われる場。

偏在

 玲音は世界に偏在する存在となるが、これは「ユビキタス」という語が「神はあまねく存在する」という意味の宗教用語から来ているところから発想されたものではないだろうか。日本で「神の遍在」と言うと汎神論的な解釈になりそうだが、作品内では「ゼウス的」な唯一神に近いものだろう。SFマガジン2011年6月号に掲載された関竜司による批評「玲音の予感」は本作品とキリスト教を関連付けたものであるが、「ゼウス的存在」と言っている以上「隣人愛」まで持ち出してくるのはちょっと牽強付会のきらいがあるように思う。

プレゼント・デイ……プレゼント・タイム……hahahahahaha!

 「今日この日、今このとき」なんてあると思ってんの? ということだと思われる。人間の「現在」の認識が記憶に依っているというのはちょっと『酔歩する男』に似てるかも。玲音は記憶を操作できるようになったわけで、つまり時間(感覚)も操作できるということだろう。

20200309日記:目的を持ったヤツがちゃくちゃくと準備をしてる

 ザ・タイマーズの「争いの河」を最初に聴いたときは全然ピンと来なかった。

 

 

 大人たちが言い争ってる

 原発や米や税金で言い争ってる

 大人たちが言い争ってる

 社会や文化、経済で争ってる

 

 その間に目的を持った奴がちゃくちゃくと準備をしてる

 (チャクチャク チャクチャク)

 THE TIMERS 「争いの河」

 

 

 「いやいつまで準備したらええんやお前も大人やろ争えや」くらいに思ったものだったけど、

 今あらためて聴くと、争わなければならず消耗している人の横で、争わずに「準備」ができる人の恐ろしさにも目がいくようになっていた。

 少なくとも「Twitterなんかで消耗せずにできることを着実にやって地道な努力をしていこう」とちょっと前向きな気持ちになれる、悪くない歌詞だと今は思う。

 

www.youtube.com

 モヤモヤするのは「準備を進めている奴」の「準備」が、争いのための準備なのか、争わないための準備なのかわからないところなんだろうな。

 

 

 それは置いておいて、とうとうニューヨーク株式市場が暴落して、いよいよ世界的な恐慌に入ってきてしまったんじゃないかと暗い気持ちになっている。

 

 正直、不況はいつ来てもおかしくないとは思っていた。

 

 異常な低金利は、各国の金融緩和がもう限界なことの表れだった。アメリカのPMIも、50切ったら不況と言われるなか、このところ50を切っていた。そして米中貿易摩擦があった。そんななかでも、S&P500指数はどんどんと上昇し、不動産価格も上がり続けていた。

 そんな中にこのウイルス騒ぎが襲ったんだから、不況むべなるかなという気にさえなる。

 

 景気は浮き沈みがあるんだからそりゃ沈むときは沈むわくらいに考えているけれど、今回怖いのは、リーマンショックの後のような秩序が今の国際政治に存在しないことだ。

 アメリカはトランプ大統領になって世界のリーダーをやめてしまったし、EUはイギリスが抜けているようでは話にならない。メルケルさんもそろそろ退陣だし。

 中国は、リーマンショックの後は60兆円近い財政出動をして「世界を救った」とさえ言われているけれど、今の状況の中国にそんな大胆な打ち手は期待できないように思う。

 とにかく、自国第一主義が広がっていて、国際政治に期待できるプレイヤーが全くいない状況なのだ。歴史で習った1929年の大恐慌を思い出してしまうくらいに。

 

 きっと、ウイルスの影響がどこまで続くかわからない不透明な状況のなか、秩序不在のまま不況が広がっていくんだろう。コロナウイルスの死者数とは比べものにならないくらいの人が不況で死ぬはずだ。最悪の気分。

 悲観的になるほど悪い状況じゃないと思いたいけど、失われた20年を生きてきたせいでどうしても暗い予想になってしまう。

 

 こんな状況で個人ができることなんてないんだから、やれることを着々とやっていくしかない。

 暗い争いから一歩だけ身を引くこと、着々と準備をすること。

 今はそうするしかないんだろう。

 (チャクチャク チャクチャク……)

 

20200308日記:楽しみはみんな忘れろ

 コロナウイルスのせいで暗い気持ちになっている。

 雨降りの日曜日がさらにそれに拍車をかける。

 

 楽しみにしていたイベントも全て中止になってしまった。

 井上陽水の「夕立」の歌詞を思い出すような容赦なさで、すべてが取りやめになっていく。

 

  計画は全部中止だ

   楽しみはみんな忘れろ

  嘘じゃないぞ 夕立だぞ

  家にいて黙っているんだ 夏が終わるまで

  君のこともずっとおあずけ

  Ah~ 夕立だ

 

 書き出すとしみじみ変な歌詞ですね。

 

 準最寄り駅の構内にはピアノが置かれていて、自分はその空間が大好きだったのだが、今日はそのピアノにも布がかけられていて「コロナウイルスの影響により当面の間は中止いたします」とのことだった。

 これを見たときは「こんなものにまで……」と本当に泣きそうになった。

 音大が近くにあることもあって、時には息を飲むほど美しい演奏がされている場所だったのだ。もちろん小学生くらいの子どもがポロンポロンと弾いていることもある。とても素敵な空間なのだ。「楽しみはみんな忘れろ 嘘じゃないぞ」という声が頭のなかに響く。

 

 非常事態的な対応で一時的に麻痺しているけれど、コロナウイルスによる経済的なインパクトはかなり大きいはずだ。学生をしていたときよりも経済に敏感なポジションにいるので、なおさらそれを感じる。

 唯一ウイルスの置き土産でリモートワークが急激に進めばいいと思っているけど、ほとんど人にとってはインフラ的にも業務的にもリモートワークなんかうまくできるわけないし、急激に進みすぎると揺り戻しがキツいと思っている。

 

 なにより嫌なのはツイッターを見るとリテラシーの欠けたツイートが何万もリツイートされているのを嫌でも目にしてしまうことだ。

 正直、ああポピュリズムってここまで来てたのかと思ってしまう。

 ならツイッターなんか見なけりゃええやんと思うのだが、ツイッターはもう10年近くやってしまってるせいで生活の一部になっていてどうしてもやめられない。オワリ。

 

 俺が一人で経済を回してやるぜと意気込んで、街に出て気まぐれに消費なんかしてみたりもする。5000円くらいする高いウォッカをエイヤと買って、冷凍庫で冷やしてパーシャルショットにして飲んでみたりするが、なんとも虚しい。

 消費ってやっぱり物語がないと虚しいですね。消費は魔術的にやったほうが楽しい。

 

 

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が一点だけ本当に許せなかったので文句を言う

 

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 今回のゴジラは絶対にやってはいけないことをやってしまったと思う。

 たとえ、どんな前提があったとしても、「日本人が核兵器の犠牲になることで人類が救われる」映画をアメリカ人が作ってはいけない。

 それも、ゴジラを冠する映画でこれをやってしまったことに、本当に怒りを覚えた。

 初代ゴジラをリスペクトしろとは言わない。しかし、絶対にやってはいけないことがある。

 

 問題なのは、世界を破壊しまくるモンスター・ゼロ「キングギドラ」を倒してもらうため、渡辺謙演じる芹沢博士がゴジラ放射能を捧げるシーンだ。

 ゴジラを愛する芹沢博士は、潜水艦に乗って傷ついたゴジラの元へ行き、核兵器のスイッチを押し、自らが犠牲になることでゴジラを復活させる。こうして復活したゴジラは、王(あるいは神)のような存在となり、キングギドラを倒し、世界を救う。

 

 個人的には、ありえない展開だと思う。

 ちょっと考えれば「広島と長崎が犠牲になることで第二次世界大戦は最小限の犠牲で終わった」「世界のリーダーであるアメリカが核兵器によって秩序をもたらした」といった理屈を肯定するような展開だとわかるだろう。*1

 核兵器、広島と長崎の問題を矮小化するのは、許されないことではあるだろうが、アメリカ人の感情的には仕方ないところもあるだろう。どの国の人間も、何十年も前に自国が犯した罪から目を背けたくなるのは当たり前だ。

 しかし、核の歴史の矮小化を、「ゴジラ」を冠した作品でやってはいけなかったと思う。悲しいし、腹が立つ。

 

 フィクションには、普通の語りでは語り尽くすことのできない苦しみや悲しみ、怒りやトラウマを語ることができる機能があると思っている。

 1954年の『ゴジラ』は、まさにそういう語り尽くせないものを語るためのフィクションであった。普通の物語では語ることのできない体験が、ゴジラという歴史に残る怪獣を産み出したのだ。

 「普通の物語では語ることができない体験」とは、もちろん、2度の原爆投下のことだ。
 終戦から10年経っておらず、キャストがほぼ全員戦争を経験している。その時代に核兵器を扱うフィクションを描くということが、何を意味するのか。『キング・オブ・モンスターズ』の製作陣は、少しでもそれを考えたことがあったのだろうか。

 一秒たりとも考えていないだろう。考えたのであれば、「オキシジェンデストロイヤー」を、あんな表層のイメージだけをなぞる、ペラッペラな、動物的消費の対象としては描けなかったはずだ。
 

 圧倒的なトラウマの語り直し、という意味では、庵野秀明の『シン・ゴジラ』も当てはまるだろう。

 『シン・ゴジラ』は東日本大震災と、それにともなう福島原発事故を非常に意識した作品だった。津波の映像を思い起こさせるゴジラの初上陸、放射能汚染の描かれ方など、3.11を記憶する人にとっては胸を締め付けられるような映像が続く。


 初代ゴジラ、そしてシン・ゴジラの恐ろしさ、そしてゴジラの圧倒的な大きさは、それぞれの世代が体験したトラウマの大きさを体現している。

 

 今回の『キング・オブ・モンスターズ』とテーマ的に似通っている『ゴジラ対ヘドラ』も、トラウマ的な経験についてのフィクションと言ってもいいと思う。公害の具現化であるヘドラは、水俣病イタイイタイ病が起きた1970年代のリアルを反映している。『ゴジラ対ヘドラ』は高度経済成長のエネルギーと公害の凄まじさを受け、或る意味で異様な作品となっている。*2

 もちろん、よく知られているように「ゴジラ」は初代以降、キャラクターとして、時に愛らしい存在となっていった。しかし、核兵器の問題だけは、もっとセンシティブになってほしかった。


 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、ゴジラ愛に溢れる映画ではあったが、ゴジラ作品の魂を、しっかり受け止めているようには思えない。

 「オキシジェンデストロイヤー」や「モンスターゼロ」といった、ゴジラファンなら興奮するだろう名前を出しても、それは表層をスッと撫でただけの、うすら寒いものとしてしか響かなかった。過去のゴジラ作品のデータベースから、キャラクターやアイテム、諸々のモチーフを借りてきているだけで、それに魂が入っていないと感じたのだ。

 ゴジラモスラキングギドラの「キャラ萌え」映画としてなら、『キング・オブ・モンスターズ』は悪くないだろう。観たい絵もしっかり魅せてくれたし、やや単調ながらも、やはり怪獣同士のアクションには迫力があった。

 しかし、政治的な理由から、自分はこの作品を否定する。

*1:念のためことわっておくが、もちろん、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の制作陣がこれらの理屈を意識して制作したとは思わない(思いたくもない)。そう受け取られかねないものにしてしまったことが、政治的に問題がある、というのが主張である。

*2:ゴジラ対ヘドラ』の監督である坂野義光は『キング・オブ・モンスターズ』のエグゼクティブ・プロデューサーでもある。しかし、坂野は作品の完成を待たずして亡くなってしまった。