今週の海外短編:Lavie Tidhar "Judge Dee and the Limits of the Law", M. Rickert “The Little Witch”, など
海外短編ディグりのモチベーションを保つために、毎週土曜日の夕方にその週に読んだ短編からいくつか選んでを紹介していこうと思う。
今週はファンタジー、ホラー多め。
Lavie Tidhar "Judge Dee and the Limits of the Law"
ラヴィ・ティドハー「ジャッジ・リーと法の限界」
『完璧な夏の日』のラヴィ・ティドハーの最新短編。
吸血鬼のジャッジ・リーとその人間のパートナー、ジョナサンの冒険譚。
吸血鬼は人間を喰らい、そしてそれは罪にもならないが、吸血鬼を殺した吸血鬼はジャッジ・リーに裁かれることになる。吸血鬼バロン男爵のもとに訪れたリーとジョナサンは、バロン男爵の弟が殺されたことを知る。元人間で弟の妻の吸血鬼、クィーン・イザベラが弟を殺したと主張するバロン男爵。イザベラのもとに向かうリーとジョナサンは、法で裁くことのできない犯罪を目の当たりにすることになる。
人外と人間のコンビが好きなオタクなので面白く読めた。短編一つでは食い足りないので、シリーズ化してほしい。
トリックなどの仕掛けはミステリファンにはちょっと食い足りないところが多し、無理があるんじゃないかと感じた部分もあったが、それでもキャラクターの魅力で楽しく読める。
P H Lee "The Vampire of Kovácspéter"
P・H・リー「コヴァチペテルの吸血鬼」
毎年若い娘がヴァンパイアに連れて行かれる小さな町、コヴァチペテル。毎年の惨劇にしびれを切らした住民は、ヒーローに助けを求める。とうとうやってきたヒーローはヴァンパイアの住む古城へと向かい、そこでヴァンパイアが娘をさらう理由を知ることになる。
吸血鬼つながりで読んでみたが、これはあまり面白くなかった。というか、どこに面白さを感じればいいのかわからないまま読み終わってしまった感じ。ヴァンパイアが娘をさらう理由も、ヒーローの設定ももうひとひねり、ふたひねりくらいほしい。P・H・リーの作品でいまだに当たりを引けていないので、単純にこの作家が自分に合っていないだけかもしれない。
M. Rickert "The Little Witch"
M・リッカート「リトルウィッチ」
ハロウィンになると主人公の家へ毎年お菓子をもらいにやってくる、赤いブーツを履いた魔女の仮装の女の子。その少女は、毎年全く見た目が変わらず、歳を取っていないように見えるのだった――。
年を取るとともに偏屈になり孤独を深めていく主人公は、あるハロウィンの夜、誰もお菓子を貰いにこなかったことに気がつく。悲しみにくれる主人公だったが、夜半に目覚めると、枕元にあの成長しない不思議な少女が立っていた。
主人公は少女と暮らすことになり、季節の移り変わりのなか、少女とともに最期の青春を迎えることになる。
やや話がとっ散らかっている印象だが、これは面白かった。語り手(主人公)が怖いタイプのホラーでもある。結局何が起きたのかはよくわからない部分も多いが、主人公の孤独と、少女との彩りに満ちた暮らしの対比が美しい。
ディグりの合間の息抜きに、橋本輝幸さんがSFファン交流会で紹介されていたオススメリストの短編を拾い読みしているけど、どれもこれも面白い。
今週はMatthew Kressel"The Meeker and the All-Seeing Eye"を読んだけど、これもめちゃくちゃ面白かった。グロテスクだけどコミカルな描写からはじまって、宇宙の壮大な核心へと一気につながっていくところに感動する。
こんな感じで、毎週何編か紹介していけたらな、と思う。けっこう大変だけど。
雑記:再び、成熟について
「成熟」と国家、家族、社会について
国家は、実体的意志の現実性であり、この現実性を、国家的普遍性にまで高められた特殊的自己意識のうちにもっているから、即自かつ対自敵に理性的なものである。この実体的一体性は絶対不動の自己目的であって、この目的において自由はその最高の権利を得るが、他方、この究極目的も個々人に対して最高の権利をもつから、個々人の最高の義務は国家の成員であることである。ヘーゲル『法の哲学』第三部 倫理 §258
「成熟」と消費、グローバリゼーションについて
「成熟」と分節化について
今更、アドラー心理学がなぜあんなに流行ったのか考えてみる
『嫌われる勇気』を読む
アドラー心理学の「目的論」について
アドラー心理学のように生物・人間を目的論的捉える「学問」への批判として、アドラーとほぼ同時代人の田辺元による100年前の文章があるので、ちょっと引用してみたい。
生気論は一種の目的論に外ならない。それは機械論と同じ平面に立つ構成説明の原理でなく、発見統制、意味理解の原理である。換言すれば悟性的認識の原理でなくして、反省的判断力の意味判定の原理である。単なる科学的の知に属するものでなく、知に投射せられた信に属するものである。我々は科学的認識の立場から自然を説明するに飽くまで機械観に立たなければならぬ。目的原因が因果の一項として、機械的因果の連鎖に闖入することは自然科学的認識の廃棄を意味する。田辺元『カントの目的論』(1924)
アドラー心理学の「全体論」について
2010年代の潮流と「反主知主義」の思想
このような時代の宿命に男らしく堪えることのできないものに向かっては、つぎのようにいわれねばならない、かれはむしろだまって、つまり人がよくやるように背教者であることを吹聴して歩くことなく、ただ素直に、またかざり気なく、むかしからの教会の広くまた温かくひろげられた腕のなかへ戻るがいい、と。それはべつにかれにとってむずかしいことではあるまい。(…)われわれはかれがそうしたからといってかれをとがめることはしないであろう。マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』
「serial experiments lain」のしおり
今は昔、大学に入ってからはじめてserial experiments lain を観た僕は、もの凄い衝撃を受けた。「こんなアニメがあるのか」と心から思った。
興奮した18歳の僕は、みんなにもこのアニメを知ってもらいたい! と思い、サークルで上映会をやることを決意した。
決して分かりやすいとは言えないアニメ、「なんだかよくわかんなかったね」みたいな感想を持たれたくない、と思った僕は、上映会にあたって、登場人物と用語の紹介をした「『serial experiments lain』のしおり」と題するレジュメまで作った。A4で5ページもあるレジュメだ。気合がすごい。
レジュメを参加者全員に配り、万全の準備で迎えた上映会だったが、上映後は「これみんなでみるアニメじゃないね……」みたいな感想が出たのを覚えている。当時は若かく、自分の興奮を客観的に見ることができていなかったんだと思う。
その当時の「『serial experiments lain』のしおり」を発掘したので、ブログに載せてみようと思う。今読むとツッコミどころもけっこうあるし、「あれを言っておけばよかったのに」と思うこともたくさんあるけれど、読み返して気づかされる点も多い。まあ、大学一回生が作ったものならこんなもんかな、という気がする。
というわけで、せっかくなのでほぼそのままのものを公開。十代の自分の熱の記録でもある。
(※かなりネタバレしてます)
「serial experiments lain」のしおり
登場人物
- 岩倉玲音
本作の主人公。内気な14歳。瞳孔は常にガン開き。ワイヤードに偏在していた人間の意識の集合が自我を持ったもの。統合失調症の様に描かれている。
- 岩倉康男
玲音の仮の父。NAVIオタク。
- 岩倉美穂
玲音の仮の母。無表情で怖い。
- 岩倉美香
玲音の仮の姉。精神に異常をきたし、モデムのようなものにされちゃう。
- 瑞城ありす
玲音の親友。優しい性格で、玲音を心配してくれる。
- 四方田千砂
自殺した女の子。
- タロウ
クソガキ。
- ナイツ
ワイヤードで大きな影響力を持つといわれる算法騎士団。ワイヤードの神を信仰し、情報操作やハードウェア・ソフトウェアの開発を行っていた。「たった一つしかない真実を、事実にする為に 闘っている」。物語の終盤で大半が始末されてしまった模様。構成員はCAT、DUKeなど。
- ネズミ
ナビを背負った小汚い男。ナイツに入ろうとするが、ナイツによって始末されてしまう。
- カール・ハウスホッファ
謎のゴーグル男その1。背が高いほう。
- 林随錫
謎のゴーグル男その2。
- 黒沢
橘総合研究所の男。ハウスホッファたちのクライアントであり、英利政美の事件を収拾するかのようにみせかけて英利に協力していた男。
- 英利政美
ワイヤードの神を名乗る男。元々は第7のプロトコルを開発しようとしていた橘総合研究所の研究員。人間の個としての存在を否定しようとするが、玲音に打ち負かされ、冴えないサラリーマンになってしまう。
用語集
◇ワイヤード
この作品内での情報ネットワークのこと。
◇リアルワールド
ワイヤードに対しての現実世界。でも、現実世界ってなんだ? 玲音は言う。「リアルワールドなんて、ちっともリアルじゃない」
◇ナビ(NAVI)
パソコンやケータイなどの汎用情報端末の作品内における総称。
◇アクセラ
一種のドラッグで。ある種の周波数を出し、ホルモン分泌を促すことで時間の感覚に影響を与え、意識が「加速」したように感じさせる効果がある。
◇サイベリア
昼はネットカフェだが、夜はクラブとなるお店。サイゼリヤより民度が低い(偏見)。ダグラス・ラシュコフによる書(翻訳は大森望だ!)の名前で、サイバネティクス/サイバーパンクのcyberとシベリアのSiberiaを合わせた造語で「電脳領域」くらいの意味のよう。ラシュコフによれば、モデムを通じて簡単にアクセスできるのがサイベリアだが、ドラッグによるトリップ等によってもサイベリアに到達できるのだとか。
◇PSYCHE (プシュケ)
プロセッサ(中央演算処理装置)の一種。メインプロセッサにコネクトすることでナビの性能を飛躍的に上げることができる。名前は古代ギリシア語から来ており日本語では「「魂」等を指す概念。
◇ファントマ(PHANTOMa)
ダンジョン型RPGゲーム。セキュリティ・ホールに致命的なバグがあり、プレイヤーの意識がゲーム内に取り残される事故がしばしば起きている。ゲーム内に取り残された人は人形を持った少女に追いかけられたりする。
◇メタファライズ
作品内ではワイヤード上の仮想空間に自らの姿を現出させることを言う。チェシャ猫気取りの口が「ここでは耳だけのやつのほうが多いんだぜ」と言うのは、情報を発信できる者が少ないということか。
◇人類ネオテニー説
ネオテニー(幼形成熟)とは性的に成熟しながらも幼生・幼体の性質が残ること。
人類ネオテニー説は1920年にL.ボルグが提唱した仮説で、顔が平たく体毛が少ない等ヒトがチンパンジーの幼形に似ていることから、ヒトをサルのネオテニーとするもの。ヒトが、親もとを離れ成熟するまでに他の霊長類よりもはるかに長い期間を要するため、サルの幼年時代が延長された結果ヒトという幼形の性質を多く残した生物に進化したと考えるのである。また、成熟するまで長い期間がかかることにより大人として完成するまで学習・習熟の機会が多く与えられるので、ネオテニーたるヒトは知性が高くなったとされる。
作品内での「ネオテニーたる人類はもう進化しないとする学説」が何かはわからないが、生物としての柔軟性・可変性が高いので進化しないでも適応ができるのがヒトと唱えている学説なのだと思われる。
◇預言を実行せよ
岩倉美香を狂わせた言葉。「予言」ではなく「預言」なので神から預かった言葉。「冥府は溢れている、死者共は行き場を失うだろう」という預言も。
◇KIDS (キッズ)
ホジスン教授が 15 年前に研究していたKIDSシステムのこと。たいていの子供がごく微弱ながら持っている超心理的な能力サイ(psi)をアウターレセプター(頭を覆ってるやつ)によって束ね、黒い箱に集める。 人と人とをつなげ、脳の一部の機能を肥大させるシステム。これを用いてホジスン教授が行ったのがケンジントン実験。脳のシナプス構造の類似として子供の脳同士を繋げたのだと考えられる。
◇MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)
宇宙人に関する調査や、宇宙人との接触や交渉を秘密裏に行ってきたとされるアメリカ合衆国政府内の委員会のこと。「ムー」臭がハンパない。
MEMory EXtender、すなわち記憶を拡張させるものの意。ヴァニヴァー・ブッシュによって提唱されハイパーテキストの元となったシステム。ブッシュが想像したメメックスは、個人が所有する全ての本、記録、通信内容などを圧縮して格納できるデバイスで「個人の記憶を拡張する個人的な補助記憶」を提供するもの。
◇アイソレーションタンク
被験者に対する外部からの刺激をできる限り遮断する箱。人間感覚が遮断されたらどうなるのかを立証するためにアメリカの脳科学者ジョン・C・リリーが考案。この部屋の液体に浮かんだ人間は、視角、聴覚、温覚をほぼ完全に、重力によって生じる上下感覚をある程度まで遮断される。リリーはLSDでトリップしてこのタンクに入ったりしていたようで、「精神の内面の世界が増幅され、極彩色の色彩や前世体験、宇宙へ飛び出す」と述べている。また、アイソレーションタンクに入ったままLSDを服用することによって地球暗合統制局(ECCO)と呼ばれる存在に遭遇したと主張している。この体験を述べた『バイオコンピューターとLSD』とかいうヤバそうな本があるらしい。
◇ECCO/ Earth Coincidence Control Office
ジョン・C・リリーがLSDをキメながらアイソレーションタンクに入ったことでコンタクトしたとかいう地球外存在――地球暗合統制局のこと。ちなみにcoincidenceなので「暗号」ではなく「暗合」。
◇ザナドゥ計画
1960年にテッド・ネルソンによって創始された世界初のハイパーテキストプロジェクト。2014年に開発開始から54年間を経てプロジェクトの成果物であるソフトウェア「OpenXanadu」がリリースされた。ザナドゥにはWorld Wide Webには無い利点があり、次世代のハイパーリンクとして普及する日が来るかも(来ない)。
ネルソンは全ての出版物を電子化して人工衛星を含むサーバーに収め、そのデータ間において双方向的なハイパーリンクが張り巡らされることを構想していた。軌道上に巨大な電子図書館を打ち上げることで、地球上のどこからでも通信できるデータベースを作り、自在に情報にアクセスできるシステムを構築しようとしたらしい。ここでのザナドゥの元の意味は「桃源郷」。
◇シューマン共鳴
地球と共鳴する長周波電磁波。かなり胡散臭いが、CiNiiで検索すると50近い論文がヒットする。この作品内では「集合的無意識」と同一視される。生物が太古から浴びてきた電磁波だから生物に何らかの影響を与えているのでは、と言われたり言われなかったりしているみたいだが、このあたりは疑似科学っぽい。
◇ミーム
定義はいろいろだが、人から人へとコピーされていく情報を指す。生物を形成する情報である遺伝子の類似から生まれた概念で、文化を形成する情報のこと。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』の最終章で提示した概念。文化も淘汰圧の作用を受けると考える点において、ネオダーウィニズム的。
脳の神経回路の仕組みを模した数学モデル。シナプス結合された人工ニューロンによってコンピュータに学習能力を持たせ、様々な問題を解決するためのアプローチ。
作品内の「地球規模のニューラルネットワーク」は一個人を一つの神経細胞(ニューロン)に見立てて、それらを繋ぎ、地球全体を一つの脳にするもの。
人造人間のこと。英利政美いわく、玲音は人工リボソームによって生み出されたホムンクルスである。この人工リボソームは橘総研が開発したものらしい。玲音の瞳孔がガン開きなのは人造人間だからだと思われる。
DNAの情報がメッセンジャーRNA(mRNA)に転写されたのち、翻訳(mRNAの遺伝情報を読み取ってタンパク質へと変換する作業)が行われる場。
◇偏在
玲音は世界に偏在する存在となるが、これは「ユビキタス」という語が「神はあまねく存在する」という意味の宗教用語から来ているところから発想されたものではないだろうか。日本で「神の遍在」と言うと汎神論的な解釈になりそうだが、作品内では「ゼウス的」な唯一神に近いものだろう。SFマガジン2011年6月号に掲載された関竜司による批評「玲音の予感」は本作品とキリスト教を関連付けたものであるが、「ゼウス的存在」と言っている以上「隣人愛」まで持ち出してくるのはちょっと牽強付会のきらいがあるように思う。
◇プレゼント・デイ……プレゼント・タイム……hahahahahaha!
「今日この日、今このとき」なんてあると思ってんの? ということだと思われる。人間の「現在」の認識が記憶に依っているというのはちょっと『酔歩する男』に似てるかも。玲音は記憶を操作できるようになったわけで、つまり時間(感覚)も操作できるということだろう。
20200309日記:目的を持ったヤツがちゃくちゃくと準備をしてる
ザ・タイマーズの「争いの河」を最初に聴いたときは全然ピンと来なかった。
大人たちが言い争ってる
原発や米や税金で言い争ってる
大人たちが言い争ってる
社会や文化、経済で争ってる
その間に目的を持った奴がちゃくちゃくと準備をしてる
(チャクチャク チャクチャク)
THE TIMERS 「争いの河」
「いやいつまで準備したらええんやお前も大人やろ争えや」くらいに思ったものだったけど、
今あらためて聴くと、争わなければならず消耗している人の横で、争わずに「準備」ができる人の恐ろしさにも目がいくようになっていた。
少なくとも「Twitterなんかで消耗せずにできることを着実にやって地道な努力をしていこう」とちょっと前向きな気持ちになれる、悪くない歌詞だと今は思う。
モヤモヤするのは「準備を進めている奴」の「準備」が、争いのための準備なのか、争わないための準備なのかわからないところなんだろうな。
それは置いておいて、とうとうニューヨーク株式市場が暴落して、いよいよ世界的な恐慌に入ってきてしまったんじゃないかと暗い気持ちになっている。
正直、不況はいつ来てもおかしくないとは思っていた。
異常な低金利は、各国の金融緩和がもう限界なことの表れだった。アメリカのPMIも、50切ったら不況と言われるなか、このところ50を切っていた。そして米中貿易摩擦があった。そんななかでも、S&P500指数はどんどんと上昇し、不動産価格も上がり続けていた。
そんな中にこのウイルス騒ぎが襲ったんだから、不況むべなるかなという気にさえなる。
景気は浮き沈みがあるんだからそりゃ沈むときは沈むわくらいに考えているけれど、今回怖いのは、リーマンショックの後のような秩序が今の国際政治に存在しないことだ。
アメリカはトランプ大統領になって世界のリーダーをやめてしまったし、EUはイギリスが抜けているようでは話にならない。メルケルさんもそろそろ退陣だし。
中国は、リーマンショックの後は60兆円近い財政出動をして「世界を救った」とさえ言われているけれど、今の状況の中国にそんな大胆な打ち手は期待できないように思う。
とにかく、自国第一主義が広がっていて、国際政治に期待できるプレイヤーが全くいない状況なのだ。歴史で習った1929年の大恐慌を思い出してしまうくらいに。
きっと、ウイルスの影響がどこまで続くかわからない不透明な状況のなか、秩序不在のまま不況が広がっていくんだろう。コロナウイルスの死者数とは比べものにならないくらいの人が不況で死ぬはずだ。最悪の気分。
悲観的になるほど悪い状況じゃないと思いたいけど、失われた20年を生きてきたせいでどうしても暗い予想になってしまう。
こんな状況で個人ができることなんてないんだから、やれることを着々とやっていくしかない。
暗い争いから一歩だけ身を引くこと、着々と準備をすること。
今はそうするしかないんだろう。
(チャクチャク チャクチャク……)
20200308日記:楽しみはみんな忘れろ
コロナウイルスのせいで暗い気持ちになっている。
雨降りの日曜日がさらにそれに拍車をかける。
楽しみにしていたイベントも全て中止になってしまった。
井上陽水の「夕立」の歌詞を思い出すような容赦なさで、すべてが取りやめになっていく。
計画は全部中止だ
楽しみはみんな忘れろ
嘘じゃないぞ 夕立だぞ
家にいて黙っているんだ 夏が終わるまで
君のこともずっとおあずけ
Ah~ 夕立だ
書き出すとしみじみ変な歌詞ですね。
準最寄り駅の構内にはピアノが置かれていて、自分はその空間が大好きだったのだが、今日はそのピアノにも布がかけられていて「コロナウイルスの影響により当面の間は中止いたします」とのことだった。
これを見たときは「こんなものにまで……」と本当に泣きそうになった。
音大が近くにあることもあって、時には息を飲むほど美しい演奏がされている場所だったのだ。もちろん小学生くらいの子どもがポロンポロンと弾いていることもある。とても素敵な空間なのだ。「楽しみはみんな忘れろ 嘘じゃないぞ」という声が頭のなかに響く。
非常事態的な対応で一時的に麻痺しているけれど、コロナウイルスによる経済的なインパクトはかなり大きいはずだ。学生をしていたときよりも経済に敏感なポジションにいるので、なおさらそれを感じる。
唯一ウイルスの置き土産でリモートワークが急激に進めばいいと思っているけど、ほとんど人にとってはインフラ的にも業務的にもリモートワークなんかうまくできるわけないし、急激に進みすぎると揺り戻しがキツいと思っている。
なにより嫌なのはツイッターを見るとリテラシーの欠けたツイートが何万もリツイートされているのを嫌でも目にしてしまうことだ。
正直、ああポピュリズムってここまで来てたのかと思ってしまう。
ならツイッターなんか見なけりゃええやんと思うのだが、ツイッターはもう10年近くやってしまってるせいで生活の一部になっていてどうしてもやめられない。オワリ。
俺が一人で経済を回してやるぜと意気込んで、街に出て気まぐれに消費なんかしてみたりもする。5000円くらいする高いウォッカをエイヤと買って、冷凍庫で冷やしてパーシャルショットにして飲んでみたりするが、なんとも虚しい。
消費ってやっぱり物語がないと虚しいですね。消費は魔術的にやったほうが楽しい。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が一点だけ本当に許せなかったので文句を言う
今回のゴジラは絶対にやってはいけないことをやってしまったと思う。
たとえ、どんな前提があったとしても、「日本人が核兵器の犠牲になることで人類が救われる」映画をアメリカ人が作ってはいけない。
それも、ゴジラを冠する映画でこれをやってしまったことに、本当に怒りを覚えた。
初代ゴジラをリスペクトしろとは言わない。しかし、絶対にやってはいけないことがある。
問題なのは、世界を破壊しまくるモンスター・ゼロ「キングギドラ」を倒してもらうため、渡辺謙演じる芹沢博士がゴジラに放射能を捧げるシーンだ。
ゴジラを愛する芹沢博士は、潜水艦に乗って傷ついたゴジラの元へ行き、核兵器のスイッチを押し、自らが犠牲になることでゴジラを復活させる。こうして復活したゴジラは、王(あるいは神)のような存在となり、キングギドラを倒し、世界を救う。
個人的には、ありえない展開だと思う。
ちょっと考えれば「広島と長崎が犠牲になることで第二次世界大戦は最小限の犠牲で終わった」「世界のリーダーであるアメリカが核兵器によって秩序をもたらした」といった理屈を肯定するような展開だとわかるだろう。*1
核兵器、広島と長崎の問題を矮小化するのは、許されないことではあるだろうが、アメリカ人の感情的には仕方ないところもあるだろう。どの国の人間も、何十年も前に自国が犯した罪から目を背けたくなるのは当たり前だ。
しかし、核の歴史の矮小化を、「ゴジラ」を冠した作品でやってはいけなかったと思う。悲しいし、腹が立つ。
フィクションには、普通の語りでは語り尽くすことのできない苦しみや悲しみ、怒りやトラウマを語ることができる機能があると思っている。
1954年の『ゴジラ』は、まさにそういう語り尽くせないものを語るためのフィクションであった。普通の物語では語ることのできない体験が、ゴジラという歴史に残る怪獣を産み出したのだ。
「普通の物語では語ることができない体験」とは、もちろん、2度の原爆投下のことだ。
終戦から10年経っておらず、キャストがほぼ全員戦争を経験している。その時代に核兵器を扱うフィクションを描くということが、何を意味するのか。『キング・オブ・モンスターズ』の製作陣は、少しでもそれを考えたことがあったのだろうか。
一秒たりとも考えていないだろう。考えたのであれば、「オキシジェンデストロイヤー」を、あんな表層のイメージだけをなぞる、ペラッペラな、動物的消費の対象としては描けなかったはずだ。
圧倒的なトラウマの語り直し、という意味では、庵野秀明の『シン・ゴジラ』も当てはまるだろう。
『シン・ゴジラ』は東日本大震災と、それにともなう福島原発事故を非常に意識した作品だった。津波の映像を思い起こさせるゴジラの初上陸、放射能汚染の描かれ方など、3.11を記憶する人にとっては胸を締め付けられるような映像が続く。
初代ゴジラ、そしてシン・ゴジラの恐ろしさ、そしてゴジラの圧倒的な大きさは、それぞれの世代が体験したトラウマの大きさを体現している。
今回の『キング・オブ・モンスターズ』とテーマ的に似通っている『ゴジラ対ヘドラ』も、トラウマ的な経験についてのフィクションと言ってもいいと思う。公害の具現化であるヘドラは、水俣病やイタイイタイ病が起きた1970年代のリアルを反映している。『ゴジラ対ヘドラ』は高度経済成長のエネルギーと公害の凄まじさを受け、或る意味で異様な作品となっている。*2
もちろん、よく知られているように「ゴジラ」は初代以降、キャラクターとして、時に愛らしい存在となっていった。しかし、核兵器の問題だけは、もっとセンシティブになってほしかった。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、ゴジラ愛に溢れる映画ではあったが、ゴジラ作品の魂を、しっかり受け止めているようには思えない。
「オキシジェンデストロイヤー」や「モンスターゼロ」といった、ゴジラファンなら興奮するだろう名前を出しても、それは表層をスッと撫でただけの、うすら寒いものとしてしか響かなかった。過去のゴジラ作品のデータベースから、キャラクターやアイテム、諸々のモチーフを借りてきているだけで、それに魂が入っていないと感じたのだ。
ゴジラやモスラ、キングギドラの「キャラ萌え」映画としてなら、『キング・オブ・モンスターズ』は悪くないだろう。観たい絵もしっかり魅せてくれたし、やや単調ながらも、やはり怪獣同士のアクションには迫力があった。
しかし、政治的な理由から、自分はこの作品を否定する。