トマト倉庫八丁目

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【前編】 『闘争領域の拡大』と「鉄の檻」――ウエルベックと西洋人の孤独ー――

 

 

今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界(コスモス)であって、個々人は生まれながらにしてその中に入りこむのだし、個々人(少なくともばらばらな個人としての)にとっては事実上、その中で生きねばならぬ変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。*1

 

闘争領域の拡大 (河出文庫)

ミシェル・ウエルベックについて


 現代フランス作家ミシェル・ウエルベックは異様な作家だ。


 そのイスラームに対する差別、ミゾジニーに満ちた露悪的な態度、全てを性に結び付けてしまう下品さ。
 そうした悪態に塗れた彼の小説は、しかし世界中で多くの支持を集めている。
 かくいう自分もファンの一人だ。
 我々が「なぜウエルベックを読むのか」について語ろうとすると非常に長くなってしまうと思うので、それは別の機会に譲ろうと思う。
 

 ここでは「なぜウエルベックを読むのか」のヒントとして、『プラットフォーム』の訳者中村佳子によるあとがきを一部引用するだけに留めておきたい。

 

そもそもこうした悪態の傾向は、処女作から一貫してこのウエルベックという作家に見られる。こうした悪態なしに彼の文学は成り立たない。何故か? 思うに、それが作家の立っている位置を測定する材料だからだ。作家の立場がニュートラルなものになると、この小説は読めなくなってしまう。(…)本来、対話というのはこういうところから始まる。話し合いに意味はないと小説のなかの主人公は言うが、作家は対話を求めているように思える。*2


『闘争領域の拡大』の紹介


 さて、『闘争領域の拡大』について話そう。
 この小説も、相当に異色な小説である。
 
 プロットは自体はあまり意味を持たない。
 いちおう、孤独で愛に飢えた二人の青年、主人公とラファエル・ティスランの破滅を描いているが、基本的には「闘争領域」の断片的な描写の連続である。
 この小説は、小説としてのディティールを削ることで、作者の描きたい主題である「拡大する闘争領域」による苦悩・閉塞を、淡々と示していく営為なのだ。
 そのことは、主人公(=この小説の作者・語り手)によっても語られている。

 

 

このあとに展開するのは一篇の小説である――というか僕を主人公にした瑣末な出来事の連続である。(…)(小説を書くということによって)物事を再び描きなおし、範囲を限定する。ごくわずかな一貫性を生む。一種のリアリズムを生む。ひどい靄のなかでまごついていることに変わりはない。いくつかの指標があるにはあるという状態だ。*3

 

僕の狙いは、より哲学的なところにある。その狙いを達成するためには、逆に無駄をそぎ落さなくてはならない。簡素にしなくてはならない。たくさんのディティールを一つひとつ破壊していかなくてはならない。一方で歴史の単純な展開が、僕をバックアップしてくれるだろう。目下、世界が画一に向かっている。(…)徐々に、人間関係がかなわぬものになっている。そのせいで、人生を構成する瑣末な出来事がますます減少している。そして少しずつ、死が紛れもないその顔を現しつつある。*4


 ディティールを削った断片を集めることによって、作者は「範囲を限定」し、「闘争領域の拡大」という「一貫性」を描こうとしたのだ。「闘争領域」が「拡大」することによって「世界が画一に向」い、「人間関係」の望みが断たれている。
 
 では、この小説で作者が描こうとした「闘争領域」とな一体何か。


 「闘争領域」とは何か

 「闘争領域の拡大」とは、資本主義の原理による「競争」が市場だけでない生活のあらゆる領域にまで拡がることを指す。
 そして、この競争の拡がりによって、経済面だけではなく、人間関係の面においても「階級」「ヒエラルキー」が生まれ、「勝者」と「敗者」という断絶が拡がっていく。

 

 これについて説明している本文中の文章を、少し長くなるが引用してみよう。

 

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対応する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。(…)そして一度もセックスしない人間がいる。これがいわゆる「市場の法則」である。解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化にとんだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。*5

 

 また、「闘争領域」という主題について、『素粒子』の訳者、野崎歓は次のように説明している。

 

闘争領域の拡大とは何か。高度資本主義社会を支えるのは、個人の欲望を無際限に肯定し、煽りたてるメカニズムである。そのメカニズムを行き渡らせることにより、現代社会はあらゆる領域で強者と弱者、勝者と敗者を生み、両者を隔ててやまない。経済的な面においてだけではない。セクシュアリティにかかわる私的体験の領域においても、不均衡は増大する一方である。あらゆる快楽を漁り尽くす強者が存在する一方、性愛に関していかなる満足も得られないまま一人惨めさをかみしめる傷ついた者たちも存在する。(中略)要するにそれは、〈もてない男〉を主人公とした物語なのだが、批評家たちが云々する以前に一般読者が強く反応したという事実は、この作品がフランス小説が閑却してきた主題を掘り起こしたことを証明している。伝統的諸価値の制約を解かれ、何もかも自由になったはずの現代社会で、その自由ゆえんい男たち――〈もてない男たち〉――はいかなる困難を背負ってしまったかという主題である。

 

 

 この、「強者と弱者、勝者と敗者を生み、両者を隔ててやまない」メカニズムと聞いて、自分はヴェーバーが資本主義社会について使う「鉄の檻」という形容を思い起こさずにはいられない。

 
 「闘争領域の拡大」とは「鉄の檻」の拡大なのだ。
 ヴェーバーは資本主義の起源を「プロテスタンティズム」の禁欲であると喝破したが、その上で、近代の資本主義システムからは禁欲の精神は抜け出してしまい、「歴史にその比を見ないほど強力」な力を人間に振るう「鋼鉄のように堅い檻」となってしまったのだ。
 そこでは宗教的な精神は力を失い、「純粋な競争の感情」だけが働くようになる。そうした「鉄の檻」に問われた近代人は「精神のない専門人、心情のない享楽人」なのだ。*6


 『闘争領域の拡大』において、「鉄の檻」は、セックスという私生活の根源にまで拡がっている。そこでは、経済的階級だけでなく、性的な階級も形作られる。「性的行動はひとつの社会階級システム」なのである。

 主人公とティスランは、極大の「鉄の檻」に囚われた、「精神のない専門人、心情のない享楽人」なのだろう。

 

 

 

 【前編】では題に掲げた「西洋人の孤独」について全く触れられなかった。

 【後編】では、今回の内容を踏まえて、『闘争領域の拡大』の主人公の「観察者の立場」がどのような仕組みによって、第三部における孤独と破滅に繋がるのか、書けるだけ書いてみようと思う。

 自分が考えたなかでは、主人公の憂鬱と破滅の原因は「観察者の立場」だと思うのだ。

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

素粒子 (ちくま文庫)