トマト倉庫八丁目

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【後編】 『闘争領域の拡大』と「鉄の檻」――ウエルベックと西洋人の孤独ー――

 

 

 非日常的なものと化してしまった性生活、とりわけ婚姻関係の枠外における性生活は、昔の農民にみられた素朴な有機的生活の循環からいまや完全に抜け出ている人間を、なおも一切の生命の根源たる自然へとつなぎとめうるただ一つの絆となるにいたったのである。

マックス・ヴェーバー世界宗教の経済倫理 中間考察」*1

 

 

 ※【前編】はこちら

sawaqo11.hatenablog.com

 

 

 『闘争領域の拡大』の主人公とティスランが、「セックスのシステム」という「闘争領域」において「勝者の側」につくことができていたら、二人に「救済」は訪れていたのだろうか。
 これは、自分のなかでずっと疑問に思っていたことだった。

 ウエルベック自身も疑問視しているのではなのではないだろうか。
 ウエルベックが『闘争領域の拡大』以降に書いた『素粒子』や『プラットフォーム』には、「変化に富んだ刺激的な性生活」を送ることに成功し、女性と「愛」のある関係を築けたかのように見える主人公たちを描いている。
 しかし、ウエルベックはその「愛」のある関係を、結局はつかの間のものとして描いている。ウエルベック自身、性愛による「救済」を信じることができていないのではないか。

 

 おそらく、「救済」はないのだ。
 
 もし、性愛による「救済」がないのであれば、それはなぜなのか。
 そして、性愛による「救済」がないのだとしたら、なぜ、それでもなお性愛に「救済」を見出すことしかできないのか。

 

 【後編】は、このウエルベック作品における「救済」について考えるために、『闘争領域の拡大』における主人公の「観察者の立場」について少し論じてみたい。

 

 

主人公の「観察者の立場」

 【前編】の最後で指摘したように、主人公は徹底して「観察者の立場」を採っている。
 『闘争領域の拡大』を通して、主人公による一人称は、一貫して物事を静観する視点に立っているのだ。
 
 目の前で繰り広げられる出来事から一歩身を引いて、参入することなく観察する主人公。
 宗教倫理の抜け落ちた主人公にとっては、「愛」でさえも、冷めた観察の対象になる。 

 愛という概念は、存在論的には脆いが、作用という面においては絶大な力を示すあらゆる特性をもっている。あるいは、つい最近まで持っていたぞんざいにでっち上げられたその概念は、すぐに大きな支持を集めた。おまけに現代に至っても、愛することをきっぱり敢然と放棄している人間の方が少数派だ。(…)どうであれ愛は存在している。その結果が観察できるから。*2

 


 そして、終盤において、主人公の「観察者の立場」は、主人公自身の言葉でこのように表現されている。
 

 しかしもう随分前から、僕は自分の行為にはっきりとした意味を感じなくなっていた。つまり意味のある行為なんてもうほとんどなかった。ほとんどの場合、僕はとにかく「観察者」の立場にある。*3

 

 

 主人公は人生について熱くなることができず(この表現は『プラットフォーム』だ)、出来事の自分から関わることができずに、行為から「意味」が抜け落ちる。そんな「観察者の立場」にあるのだ。 


 上の引用箇所を読むたび、私はモリス・バーマンの「参加しない意識」(non-participation conciousness)を思い出す。
 「参加しない意識」の概念は、主人公の「観察者」の立場と、それによる行為からの意味の喪失、行き詰まりを説明するのに便利なのではないかと思う。
 というか、終盤の主人公の苦悩は、バーマンが指摘した西洋人の行き詰まりと、ほとんどぴったり一致しているように思えるのだ。*4

 

「参加しない意識」

 「参加しない意識」については、バーマンの『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』における、翻訳者の柴田元幸による解説がわかりやすい。 

 

 この本のメッセージを乱暴に要約すれば、
(1)ここなん世紀かのあいだ、いわゆる「西洋近代」の人々は、私と私でないものを区別し、人間と自然とを区別し、人間と自然とを区別し、精神と身体を区別し……というように、自分を世界から隔てることを通じて世界とかかわってきた(著者バーマンはこれを「参加しない意識」と呼ぶ)。
(2)けれども人類の歴史を通してみれば、世界のなかに自分を没入させる(「参加する意識」)ことによって人間が世界とかかわっていた時期のほうがはるかに長いのであり、
(3)(1)の方が(2)よりすぐれているとはかならずしも言えないし(むろん逆も同じ)、少なくとも現時点では(1)の「参加しない意識」が行き詰まりに来ているように思える。*5

 

 もう少し補足してみよう。
 「参加する意識」における人間は、自分自身と世界とが、切っても切り離せない、密接なつながりを持っている人間だ。対して、西洋近代以降は「参加しない意識」が支配的になり、人間は自分自身と世界、主体と客体を切り離すようになった。科学的な、世界を観察する意識である。
 「参加しない意識」が優勢になってきたのは、およそ400年前であり、それはデカルトに代表される機械論や、ニュートンらに代表される科学意識によって、近代のパラダイムが形成されていった時代である。西洋近代のデカルトパラダイムは科学革命を産み、それが人間の意識を決定的に変えていく。西洋は魔術の時代から、科学の時代へと移っていったのである。
 こうして生まれた「参加しない意識」、主体として客体である世界を観察する意識は、近代以降の科学においてめざましい成果を上げた。が、しかしこの意識は同時に「自己を世界から疎外する意識」でもあった。

 バーマンは西洋の行き詰まりの根源は、「参加しない意識」に由来すると指摘する。

 

 主体と客体とがつねに対立し、自分が自分の経験の外側に置かれる結果、まわりの世界から「私」というものが締め出される。(…)世界は私の行為とは無関係に成り立ち、私のことなど気にもかけずにめぐり続ける。世界に帰属しているという感覚は消滅し、ストレスとフラストレーションの毎日が結果する。*6


 これこそが日常生活に深く食い込む西欧人の行き詰まりである。

 世界に没入することなく観察する「参加しない意識」のもとでは、人間の精神はR・D・レインが言う「引き裂かれた自己」になってしまう。そんなにせものの自己が官僚制的なシステムに囚われていては、生の意味を見出すことは難しく、欧米の人々はどんどんと精神病的になっていってしまう、というのがバーマンの主張だ。

 

 (生の魔術を解かれて)機械のように動く身体としての自分が演じる他者との関わりを、まるで科学的観察者のように冷ややかに見ている。そんなにせものの自己が捉えた世界がリアルであろうはずはなく、行為から意味が抜け落ちることは必然である。仕事のなかでも、「恋」と呼ぶものにあるときさえも、空想の世界に引きこもり、偽りの自己を指導させては、日常世界を構成する儀式の連続をこなしていく。*7

 


脱呪術化による「意味」の喪失

 

 ここにきてやっと【前編】とつながってくるのだが、このバーマンの議論は、マックス・ヴェーバーによる合理化論が下敷きになっている。
 ヴェーバーは、近代の「進歩」を「魔法からの世界解放」「世界にかけられた魔法が解けていく」(Entzauberung der Welt)と表現した。
 こうした「脱呪術化(=主知主義的合理化)」こそが、資本主義の原動力であったのだ。
 ヴェーバーの有名な講演『職業としての学問』では、ヴェーバーは今日の科学的認識(バーマンの言う「参加しない意識」)のもとでは、「世界の意味」といったものは求められない。いや、「学問がなにかこの点で役立つとすれば、それはむしろこの世界の「意味」というようなものの存在にたいする信仰を根本から除き去ることである」*8と主張している。
 
 人間が自然と有機的につながっている世界から、「参加しない意識」による「合理化」によって人間が疎外され、行為から意味が失われていく。この過程は、ヴェーバー自身によっては、たとえば次のように表現される。

 

 「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。しかも、文化財への奉仕が聖なる使命とされ、「天職」 Beruf とされればされるほど、それは、無価値なうえに、どこにもここにも矛盾をはらみ、相互に敵対しあうような目標のために、ますます無意味な働きをあくせく続けるということになる、そうした呪われた運命におちいらざるをえないのである。*9

 


『闘争領域の拡大』における主人公の破滅


 『闘争領域の拡大』へ戻ろう。

 
 「参加しない意識」による人間の疎外を考えると、『闘争領域の拡大』の主人公が、その「観察者の立場」ゆえに、自分自身の行為に意味を感じられなくなるのは必然的、という気がしてくる。


 もちろん、常識的な意味で「一歩引いたような冷めた目線で人生のイベントに没入ないでいたら、自分のやっていることに意味が感じられなくなってくるのはあたりまえじゃないか」と考える事もできるだろう。
 しかし、バーマンの考えを補助線に使えば、「闘争領域の拡大」と主人公の「観察者の立場」、そして主人公の精神病的な破滅が密接に関係していることが指摘できる。
 すなわち、「闘争領域の拡大」とは資本主義の原理の拡大であり、その資本主義の原理を拡大させてきたのは主知主義的合理化(=脱呪術化)であった。そして、脱呪術化を推進してきた意識は「参加しない意識」(≒「観察者の立場」)であり、この意識のもとではあらゆる領域から「意味」なるものが抜け落ちていく。脱呪術化か究極的に進んだ世界、つまり『闘争領域の拡大』で描かれる、セックスのような「私的領域」にまで資本主義の原理が行き届いた世界において立ち上がる意識は、究極的な「参加しない意識」(≒「観察者の立場」)である。この「観察者の立場」にあっては、客体たる「自然」や「他者」から自分自身が完全に分離され、自身のあらゆる行為から意味が喪失する。あらゆる「意味」が喪失し、自分自身が一個の粒子のようになった自己は「引き裂かれた自己」にほかならず、そんな自己においては憂鬱症に陥ざるをえない。
 
 これを、『闘争領域の拡大』の結末を参考に確認してみよう。
 
『闘争領域の拡大』結末では、自然のなかに自分が没入している「参加する意識」に憧れながらも、「観察者の立場」(≒「参加しない意識」)のまま世界から切り離されて、自己が引き裂かれて破滅していく様子が描かれているように思えてならない。
 すなわちそれは近代化の最終局面を迎えた西洋人の破滅だ。

 

 僕は陽のあたる野原に横になる。しかし僕は、このとても柔らかな野原で、このとても気持ちよい安らかな風景の中で、苦痛を感じる。なにかに溶け込むこと、気持ちよいと思うこと、感覚器官の素朴な調和を引き出したかもしれないものはすべて、苦痛や不幸の源になった。同時に、悦びの予感も強烈に感じる。数年来、僕はひとりの亡霊とともに歩いてきた。そいつは僕にそっくりで、机上の楽園に住み、世界と密接に関わっている。僕は長いことそいつと行動を共にするのは自分の義務だと考えきた。それももう終わりだ。*10


 どうだろうか。
 ここでの主人公は、愛に飢えて破滅しているのではなく、世界のなかに溶け込むこと、自分自身が感覚そのものになること、「世界と密接に関わる」ことができずに苦悩しているように思える。「世界と密接に関わ」り意味に溢れた世界を生きる自己は「亡霊」となってしまい、自然のなかで苦痛を感じているまさにこの自己は、「引き裂かれた自己」、「にせものの自己」なのだ。


 この苦痛はつまり、「参加しない意識」≒「観察者の立場」による苦痛だ。

 このような意識にある主人公において、「愛」ははたして救済になりうるのだろうか?

 

 『闘争領域の拡大』は、次のように締めくくられている。

 

 僕はもう少し森の奥へ進んでいく。(…)景色はますます和やかで、気持ちのいい、陽気なものになる。そのせいで肌が痛い。僕は裂け目の中心にいる。自分の肌を境界のように感じる。そして外部の世界を壊滅的な圧力のように感じる。分離はすみずみまで行き届いたようだ。このさき、僕は自分という檻の囚人だ。崇高な融合なんて起こらない。生存の目的は達せられなかった。現在、午後二時。*11


ウエルベックの描く、性愛・恐怖・宗教

 

 さて、ここでこの記事を終わりにしても良かったのだが、最後に一つだけ自分の暫定的な考えを書いておきたい。
 ウエルベックは、その著作を通して執拗に「性愛」、「テロの恐怖」、「イスラーム」を描いているが、これが「参加する意識」と関係しているような気がするのだ。 
 つまり、性愛・恐怖・宗教の意識は、代表的な「参加する意識」なのである。
 
 伝統的宗教は、自己の行為に意味を与えてくれるものであり、そこでは神と自分自身は密接に関係している。これはまさしく「参加する意識」だ。たとえば、イスラームによる「グローバル・ジハード」は明らかに「参加する意識」に属する現象だろう。ジハーディストの殉教は意味に満ちた死だといえる。
 また、バーマンは、現代において「私」と「経験」自身が単純に一致するような「参加」は、「肉欲」と「恐怖」くらいしかない、と指摘している。
 

 我々が語ってきた「参加」とは、自己の「内側」と「外側」が体験の瞬間において一体化することである。(…)こんな機能が、いま一般の人間にどれだけ残っているだろうか。私に思いつくのは「肉欲」と恐怖だけである。セックスのただなかにあって、「私」は次第に相手のなかに沈み、かき消えていく。オーガズムの瞬間、そのオーガズムを「経験している」私など存在しない。私がイコール、オーガズムなのである。パニックの場合も同じだろう。恐怖が「私」を襲い、私を捉える。その恐怖から、「私」という純粋自我を引き離して考えることには無理がある。*12


 「参加する意識」に憧れながらも「参加しない意識」から抜け出せずに苦しむ現代人を描くのに、性愛・恐怖・宗教以上の題材はないようにも思える。


 たとえば、ウエルベックイスラームの描き方は、中田考も指摘するように、イスラームに内在するものを読み取ろうとせず、「西洋世界に対するイスラーム」という「対処すべき問題」という形で描いている。*13
 ウエルベックによるイスラームへの憎悪は、「参加する意識」への憧憬の裏返しが、もしかしたら存在するのではないか。
 
 このあたりは全くの予想(というか妄想)でしかなく、またバーマンの議論を雑に広げすぎているきらいもあるので、また詳しく考えてみたい。

 


 ※今回はかなり大雑把な議論になってしまった上に、ウエルベックの先行研究を全く顧みていないので、至らぬ点も多々あると思います。もしこの記事を補強する/論破する先行研究などあれば、コメント等で指摘していただけると大変ありがたいです。
 

 

 

引用文献

[1]マックス・ヴェーバー著/大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』、みすず書房、1972

[2]ミシェル・ウエルベック著/中村佳子訳『闘争領域の拡大』、河出文庫、2018 

[3]モリス・バーマン著/柴田元幸訳『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』、国文社、1989

[4]マックス・ヴェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』、岩波文庫、1936

 

闘争領域の拡大 (河出文庫)

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化 

*1:[1]p.140

*2:[2]p.118 太字部本文

*3:[2]p.198 太字部引用者

*4:もちろん、この記事は、ウエルベックがバーマンを意識して『闘争領域の拡大』を執筆したのだ! と主張するものではない。バーマンの主眼は、「参加しない意識」が西洋世界の根底に浸透しており、現代西洋世界の問題の根が深いことを指摘する点にある。この記事の主張は、ウエルベックの描く「行き詰まり」が西洋的な問題の根深さと密接に関係しているのではないか、くらいのところだ。

*5:[3]p.423

*6:[3]p.15

*7:[3]p.18-19

*8:[4]p.41

*9:[1]p.158-159

*10:[2]p.202 太字部引用者

*11:[2]p.202 太字部引用者

*12:[3]p.79

*13:中田考著『帝国の復興と啓蒙の未来』、太田出版、2017 を参照のこと