トマト倉庫八丁目

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【後編】 『闘争領域の拡大』と「鉄の檻」――ウエルベックと西洋人の孤独ー――

 

 

 非日常的なものと化してしまった性生活、とりわけ婚姻関係の枠外における性生活は、昔の農民にみられた素朴な有機的生活の循環からいまや完全に抜け出ている人間を、なおも一切の生命の根源たる自然へとつなぎとめうるただ一つの絆となるにいたったのである。

マックス・ヴェーバー世界宗教の経済倫理 中間考察」*1

 

 

 ※【前編】はこちら

sawaqo11.hatenablog.com

 

 

 『闘争領域の拡大』の主人公とティスランが、「セックスのシステム」という「闘争領域」において「勝者の側」につくことができていたら、二人に「救済」は訪れていたのだろうか。
 これは、自分のなかでずっと疑問に思っていたことだった。

 ウエルベック自身も疑問視しているのではなのではないだろうか。
 ウエルベックが『闘争領域の拡大』以降に書いた『素粒子』や『プラットフォーム』には、「変化に富んだ刺激的な性生活」を送ることに成功し、女性と「愛」のある関係を築けたかのように見える主人公たちを描いている。
 しかし、ウエルベックはその「愛」のある関係を、結局はつかの間のものとして描いている。ウエルベック自身、性愛による「救済」を信じることができていないのではないか。

 

 おそらく、「救済」はないのだ。
 
 もし、性愛による「救済」がないのであれば、それはなぜなのか。
 そして、性愛による「救済」がないのだとしたら、なぜ、それでもなお性愛に「救済」を見出すことしかできないのか。

 

 【後編】は、このウエルベック作品における「救済」について考えるために、『闘争領域の拡大』における主人公の「観察者の立場」について少し論じてみたい。

 

 

主人公の「観察者の立場」

 【前編】の最後で指摘したように、主人公は徹底して「観察者の立場」を採っている。
 『闘争領域の拡大』を通して、主人公による一人称は、一貫して物事を静観する視点に立っているのだ。
 
 目の前で繰り広げられる出来事から一歩身を引いて、参入することなく観察する主人公。
 宗教倫理の抜け落ちた主人公にとっては、「愛」でさえも、冷めた観察の対象になる。 

 愛という概念は、存在論的には脆いが、作用という面においては絶大な力を示すあらゆる特性をもっている。あるいは、つい最近まで持っていたぞんざいにでっち上げられたその概念は、すぐに大きな支持を集めた。おまけに現代に至っても、愛することをきっぱり敢然と放棄している人間の方が少数派だ。(…)どうであれ愛は存在している。その結果が観察できるから。*2

 


 そして、終盤において、主人公の「観察者の立場」は、主人公自身の言葉でこのように表現されている。
 

 しかしもう随分前から、僕は自分の行為にはっきりとした意味を感じなくなっていた。つまり意味のある行為なんてもうほとんどなかった。ほとんどの場合、僕はとにかく「観察者」の立場にある。*3

 

 

 主人公は人生について熱くなることができず(この表現は『プラットフォーム』だ)、出来事の自分から関わることができずに、行為から「意味」が抜け落ちる。そんな「観察者の立場」にあるのだ。 


 上の引用箇所を読むたび、私はモリス・バーマンの「参加しない意識」(non-participation conciousness)を思い出す。
 「参加しない意識」の概念は、主人公の「観察者」の立場と、それによる行為からの意味の喪失、行き詰まりを説明するのに便利なのではないかと思う。
 というか、終盤の主人公の苦悩は、バーマンが指摘した西洋人の行き詰まりと、ほとんどぴったり一致しているように思えるのだ。*4

 

「参加しない意識」

 「参加しない意識」については、バーマンの『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』における、翻訳者の柴田元幸による解説がわかりやすい。 

 

 この本のメッセージを乱暴に要約すれば、
(1)ここなん世紀かのあいだ、いわゆる「西洋近代」の人々は、私と私でないものを区別し、人間と自然とを区別し、人間と自然とを区別し、精神と身体を区別し……というように、自分を世界から隔てることを通じて世界とかかわってきた(著者バーマンはこれを「参加しない意識」と呼ぶ)。
(2)けれども人類の歴史を通してみれば、世界のなかに自分を没入させる(「参加する意識」)ことによって人間が世界とかかわっていた時期のほうがはるかに長いのであり、
(3)(1)の方が(2)よりすぐれているとはかならずしも言えないし(むろん逆も同じ)、少なくとも現時点では(1)の「参加しない意識」が行き詰まりに来ているように思える。*5

 

 もう少し補足してみよう。
 「参加する意識」における人間は、自分自身と世界とが、切っても切り離せない、密接なつながりを持っている人間だ。対して、西洋近代以降は「参加しない意識」が支配的になり、人間は自分自身と世界、主体と客体を切り離すようになった。科学的な、世界を観察する意識である。
 「参加しない意識」が優勢になってきたのは、およそ400年前であり、それはデカルトに代表される機械論や、ニュートンらに代表される科学意識によって、近代のパラダイムが形成されていった時代である。西洋近代のデカルトパラダイムは科学革命を産み、それが人間の意識を決定的に変えていく。西洋は魔術の時代から、科学の時代へと移っていったのである。
 こうして生まれた「参加しない意識」、主体として客体である世界を観察する意識は、近代以降の科学においてめざましい成果を上げた。が、しかしこの意識は同時に「自己を世界から疎外する意識」でもあった。

 バーマンは西洋の行き詰まりの根源は、「参加しない意識」に由来すると指摘する。

 

 主体と客体とがつねに対立し、自分が自分の経験の外側に置かれる結果、まわりの世界から「私」というものが締め出される。(…)世界は私の行為とは無関係に成り立ち、私のことなど気にもかけずにめぐり続ける。世界に帰属しているという感覚は消滅し、ストレスとフラストレーションの毎日が結果する。*6


 これこそが日常生活に深く食い込む西欧人の行き詰まりである。

 世界に没入することなく観察する「参加しない意識」のもとでは、人間の精神はR・D・レインが言う「引き裂かれた自己」になってしまう。そんなにせものの自己が官僚制的なシステムに囚われていては、生の意味を見出すことは難しく、欧米の人々はどんどんと精神病的になっていってしまう、というのがバーマンの主張だ。

 

 (生の魔術を解かれて)機械のように動く身体としての自分が演じる他者との関わりを、まるで科学的観察者のように冷ややかに見ている。そんなにせものの自己が捉えた世界がリアルであろうはずはなく、行為から意味が抜け落ちることは必然である。仕事のなかでも、「恋」と呼ぶものにあるときさえも、空想の世界に引きこもり、偽りの自己を指導させては、日常世界を構成する儀式の連続をこなしていく。*7

 


脱呪術化による「意味」の喪失

 

 ここにきてやっと【前編】とつながってくるのだが、このバーマンの議論は、マックス・ヴェーバーによる合理化論が下敷きになっている。
 ヴェーバーは、近代の「進歩」を「魔法からの世界解放」「世界にかけられた魔法が解けていく」(Entzauberung der Welt)と表現した。
 こうした「脱呪術化(=主知主義的合理化)」こそが、資本主義の原動力であったのだ。
 ヴェーバーの有名な講演『職業としての学問』では、ヴェーバーは今日の科学的認識(バーマンの言う「参加しない意識」)のもとでは、「世界の意味」といったものは求められない。いや、「学問がなにかこの点で役立つとすれば、それはむしろこの世界の「意味」というようなものの存在にたいする信仰を根本から除き去ることである」*8と主張している。
 
 人間が自然と有機的につながっている世界から、「参加しない意識」による「合理化」によって人間が疎外され、行為から意味が失われていく。この過程は、ヴェーバー自身によっては、たとえば次のように表現される。

 

 「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。しかも、文化財への奉仕が聖なる使命とされ、「天職」 Beruf とされればされるほど、それは、無価値なうえに、どこにもここにも矛盾をはらみ、相互に敵対しあうような目標のために、ますます無意味な働きをあくせく続けるということになる、そうした呪われた運命におちいらざるをえないのである。*9

 


『闘争領域の拡大』における主人公の破滅


 『闘争領域の拡大』へ戻ろう。

 
 「参加しない意識」による人間の疎外を考えると、『闘争領域の拡大』の主人公が、その「観察者の立場」ゆえに、自分自身の行為に意味を感じられなくなるのは必然的、という気がしてくる。


 もちろん、常識的な意味で「一歩引いたような冷めた目線で人生のイベントに没入ないでいたら、自分のやっていることに意味が感じられなくなってくるのはあたりまえじゃないか」と考える事もできるだろう。
 しかし、バーマンの考えを補助線に使えば、「闘争領域の拡大」と主人公の「観察者の立場」、そして主人公の精神病的な破滅が密接に関係していることが指摘できる。
 すなわち、「闘争領域の拡大」とは資本主義の原理の拡大であり、その資本主義の原理を拡大させてきたのは主知主義的合理化(=脱呪術化)であった。そして、脱呪術化を推進してきた意識は「参加しない意識」(≒「観察者の立場」)であり、この意識のもとではあらゆる領域から「意味」なるものが抜け落ちていく。脱呪術化か究極的に進んだ世界、つまり『闘争領域の拡大』で描かれる、セックスのような「私的領域」にまで資本主義の原理が行き届いた世界において立ち上がる意識は、究極的な「参加しない意識」(≒「観察者の立場」)である。この「観察者の立場」にあっては、客体たる「自然」や「他者」から自分自身が完全に分離され、自身のあらゆる行為から意味が喪失する。あらゆる「意味」が喪失し、自分自身が一個の粒子のようになった自己は「引き裂かれた自己」にほかならず、そんな自己においては憂鬱症に陥ざるをえない。
 
 これを、『闘争領域の拡大』の結末を参考に確認してみよう。
 
『闘争領域の拡大』結末では、自然のなかに自分が没入している「参加する意識」に憧れながらも、「観察者の立場」(≒「参加しない意識」)のまま世界から切り離されて、自己が引き裂かれて破滅していく様子が描かれているように思えてならない。
 すなわちそれは近代化の最終局面を迎えた西洋人の破滅だ。

 

 僕は陽のあたる野原に横になる。しかし僕は、このとても柔らかな野原で、このとても気持ちよい安らかな風景の中で、苦痛を感じる。なにかに溶け込むこと、気持ちよいと思うこと、感覚器官の素朴な調和を引き出したかもしれないものはすべて、苦痛や不幸の源になった。同時に、悦びの予感も強烈に感じる。数年来、僕はひとりの亡霊とともに歩いてきた。そいつは僕にそっくりで、机上の楽園に住み、世界と密接に関わっている。僕は長いことそいつと行動を共にするのは自分の義務だと考えきた。それももう終わりだ。*10


 どうだろうか。
 ここでの主人公は、愛に飢えて破滅しているのではなく、世界のなかに溶け込むこと、自分自身が感覚そのものになること、「世界と密接に関わる」ことができずに苦悩しているように思える。「世界と密接に関わ」り意味に溢れた世界を生きる自己は「亡霊」となってしまい、自然のなかで苦痛を感じているまさにこの自己は、「引き裂かれた自己」、「にせものの自己」なのだ。


 この苦痛はつまり、「参加しない意識」≒「観察者の立場」による苦痛だ。

 このような意識にある主人公において、「愛」ははたして救済になりうるのだろうか?

 

 『闘争領域の拡大』は、次のように締めくくられている。

 

 僕はもう少し森の奥へ進んでいく。(…)景色はますます和やかで、気持ちのいい、陽気なものになる。そのせいで肌が痛い。僕は裂け目の中心にいる。自分の肌を境界のように感じる。そして外部の世界を壊滅的な圧力のように感じる。分離はすみずみまで行き届いたようだ。このさき、僕は自分という檻の囚人だ。崇高な融合なんて起こらない。生存の目的は達せられなかった。現在、午後二時。*11


ウエルベックの描く、性愛・恐怖・宗教

 

 さて、ここでこの記事を終わりにしても良かったのだが、最後に一つだけ自分の暫定的な考えを書いておきたい。
 ウエルベックは、その著作を通して執拗に「性愛」、「テロの恐怖」、「イスラーム」を描いているが、これが「参加する意識」と関係しているような気がするのだ。 
 つまり、性愛・恐怖・宗教の意識は、代表的な「参加する意識」なのである。
 
 伝統的宗教は、自己の行為に意味を与えてくれるものであり、そこでは神と自分自身は密接に関係している。これはまさしく「参加する意識」だ。たとえば、イスラームによる「グローバル・ジハード」は明らかに「参加する意識」に属する現象だろう。ジハーディストの殉教は意味に満ちた死だといえる。
 また、バーマンは、現代において「私」と「経験」自身が単純に一致するような「参加」は、「肉欲」と「恐怖」くらいしかない、と指摘している。
 

 我々が語ってきた「参加」とは、自己の「内側」と「外側」が体験の瞬間において一体化することである。(…)こんな機能が、いま一般の人間にどれだけ残っているだろうか。私に思いつくのは「肉欲」と恐怖だけである。セックスのただなかにあって、「私」は次第に相手のなかに沈み、かき消えていく。オーガズムの瞬間、そのオーガズムを「経験している」私など存在しない。私がイコール、オーガズムなのである。パニックの場合も同じだろう。恐怖が「私」を襲い、私を捉える。その恐怖から、「私」という純粋自我を引き離して考えることには無理がある。*12


 「参加する意識」に憧れながらも「参加しない意識」から抜け出せずに苦しむ現代人を描くのに、性愛・恐怖・宗教以上の題材はないようにも思える。


 たとえば、ウエルベックイスラームの描き方は、中田考も指摘するように、イスラームに内在するものを読み取ろうとせず、「西洋世界に対するイスラーム」という「対処すべき問題」という形で描いている。*13
 ウエルベックによるイスラームへの憎悪は、「参加する意識」への憧憬の裏返しが、もしかしたら存在するのではないか。
 
 このあたりは全くの予想(というか妄想)でしかなく、またバーマンの議論を雑に広げすぎているきらいもあるので、また詳しく考えてみたい。

 


 ※今回はかなり大雑把な議論になってしまった上に、ウエルベックの先行研究を全く顧みていないので、至らぬ点も多々あると思います。もしこの記事を補強する/論破する先行研究などあれば、コメント等で指摘していただけると大変ありがたいです。
 

 

 

引用文献

[1]マックス・ヴェーバー著/大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』、みすず書房、1972

[2]ミシェル・ウエルベック著/中村佳子訳『闘争領域の拡大』、河出文庫、2018 

[3]モリス・バーマン著/柴田元幸訳『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』、国文社、1989

[4]マックス・ヴェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』、岩波文庫、1936

 

闘争領域の拡大 (河出文庫)

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化 

*1:[1]p.140

*2:[2]p.118 太字部本文

*3:[2]p.198 太字部引用者

*4:もちろん、この記事は、ウエルベックがバーマンを意識して『闘争領域の拡大』を執筆したのだ! と主張するものではない。バーマンの主眼は、「参加しない意識」が西洋世界の根底に浸透しており、現代西洋世界の問題の根が深いことを指摘する点にある。この記事の主張は、ウエルベックの描く「行き詰まり」が西洋的な問題の根深さと密接に関係しているのではないか、くらいのところだ。

*5:[3]p.423

*6:[3]p.15

*7:[3]p.18-19

*8:[4]p.41

*9:[1]p.158-159

*10:[2]p.202 太字部引用者

*11:[2]p.202 太字部引用者

*12:[3]p.79

*13:中田考著『帝国の復興と啓蒙の未来』、太田出版、2017 を参照のこと

【前編】 『闘争領域の拡大』と「鉄の檻」――ウエルベックと西洋人の孤独ー――

 

 

今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界(コスモス)であって、個々人は生まれながらにしてその中に入りこむのだし、個々人(少なくともばらばらな個人としての)にとっては事実上、その中で生きねばならぬ変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。*1

 

闘争領域の拡大 (河出文庫)

ミシェル・ウエルベックについて


 現代フランス作家ミシェル・ウエルベックは異様な作家だ。


 そのイスラームに対する差別、ミゾジニーに満ちた露悪的な態度、全てを性に結び付けてしまう下品さ。
 そうした悪態に塗れた彼の小説は、しかし世界中で多くの支持を集めている。
 かくいう自分もファンの一人だ。
 我々が「なぜウエルベックを読むのか」について語ろうとすると非常に長くなってしまうと思うので、それは別の機会に譲ろうと思う。
 

 ここでは「なぜウエルベックを読むのか」のヒントとして、『プラットフォーム』の訳者中村佳子によるあとがきを一部引用するだけに留めておきたい。

 

そもそもこうした悪態の傾向は、処女作から一貫してこのウエルベックという作家に見られる。こうした悪態なしに彼の文学は成り立たない。何故か? 思うに、それが作家の立っている位置を測定する材料だからだ。作家の立場がニュートラルなものになると、この小説は読めなくなってしまう。(…)本来、対話というのはこういうところから始まる。話し合いに意味はないと小説のなかの主人公は言うが、作家は対話を求めているように思える。*2


『闘争領域の拡大』の紹介


 さて、『闘争領域の拡大』について話そう。
 この小説も、相当に異色な小説である。
 
 プロットは自体はあまり意味を持たない。
 いちおう、孤独で愛に飢えた二人の青年、主人公とラファエル・ティスランの破滅を描いているが、基本的には「闘争領域」の断片的な描写の連続である。
 この小説は、小説としてのディティールを削ることで、作者の描きたい主題である「拡大する闘争領域」による苦悩・閉塞を、淡々と示していく営為なのだ。
 そのことは、主人公(=この小説の作者・語り手)によっても語られている。

 

 

このあとに展開するのは一篇の小説である――というか僕を主人公にした瑣末な出来事の連続である。(…)(小説を書くということによって)物事を再び描きなおし、範囲を限定する。ごくわずかな一貫性を生む。一種のリアリズムを生む。ひどい靄のなかでまごついていることに変わりはない。いくつかの指標があるにはあるという状態だ。*3

 

僕の狙いは、より哲学的なところにある。その狙いを達成するためには、逆に無駄をそぎ落さなくてはならない。簡素にしなくてはならない。たくさんのディティールを一つひとつ破壊していかなくてはならない。一方で歴史の単純な展開が、僕をバックアップしてくれるだろう。目下、世界が画一に向かっている。(…)徐々に、人間関係がかなわぬものになっている。そのせいで、人生を構成する瑣末な出来事がますます減少している。そして少しずつ、死が紛れもないその顔を現しつつある。*4


 ディティールを削った断片を集めることによって、作者は「範囲を限定」し、「闘争領域の拡大」という「一貫性」を描こうとしたのだ。「闘争領域」が「拡大」することによって「世界が画一に向」い、「人間関係」の望みが断たれている。
 
 では、この小説で作者が描こうとした「闘争領域」とな一体何か。


 「闘争領域」とは何か

 「闘争領域の拡大」とは、資本主義の原理による「競争」が市場だけでない生活のあらゆる領域にまで拡がることを指す。
 そして、この競争の拡がりによって、経済面だけではなく、人間関係の面においても「階級」「ヒエラルキー」が生まれ、「勝者」と「敗者」という断絶が拡がっていく。

 

 これについて説明している本文中の文章を、少し長くなるが引用してみよう。

 

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対応する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。(…)そして一度もセックスしない人間がいる。これがいわゆる「市場の法則」である。解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化にとんだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。*5

 

 また、「闘争領域」という主題について、『素粒子』の訳者、野崎歓は次のように説明している。

 

闘争領域の拡大とは何か。高度資本主義社会を支えるのは、個人の欲望を無際限に肯定し、煽りたてるメカニズムである。そのメカニズムを行き渡らせることにより、現代社会はあらゆる領域で強者と弱者、勝者と敗者を生み、両者を隔ててやまない。経済的な面においてだけではない。セクシュアリティにかかわる私的体験の領域においても、不均衡は増大する一方である。あらゆる快楽を漁り尽くす強者が存在する一方、性愛に関していかなる満足も得られないまま一人惨めさをかみしめる傷ついた者たちも存在する。(中略)要するにそれは、〈もてない男〉を主人公とした物語なのだが、批評家たちが云々する以前に一般読者が強く反応したという事実は、この作品がフランス小説が閑却してきた主題を掘り起こしたことを証明している。伝統的諸価値の制約を解かれ、何もかも自由になったはずの現代社会で、その自由ゆえんい男たち――〈もてない男たち〉――はいかなる困難を背負ってしまったかという主題である。

 

 

 この、「強者と弱者、勝者と敗者を生み、両者を隔ててやまない」メカニズムと聞いて、自分はヴェーバーが資本主義社会について使う「鉄の檻」という形容を思い起こさずにはいられない。

 
 「闘争領域の拡大」とは「鉄の檻」の拡大なのだ。
 ヴェーバーは資本主義の起源を「プロテスタンティズム」の禁欲であると喝破したが、その上で、近代の資本主義システムからは禁欲の精神は抜け出してしまい、「歴史にその比を見ないほど強力」な力を人間に振るう「鋼鉄のように堅い檻」となってしまったのだ。
 そこでは宗教的な精神は力を失い、「純粋な競争の感情」だけが働くようになる。そうした「鉄の檻」に問われた近代人は「精神のない専門人、心情のない享楽人」なのだ。*6


 『闘争領域の拡大』において、「鉄の檻」は、セックスという私生活の根源にまで拡がっている。そこでは、経済的階級だけでなく、性的な階級も形作られる。「性的行動はひとつの社会階級システム」なのである。

 主人公とティスランは、極大の「鉄の檻」に囚われた、「精神のない専門人、心情のない享楽人」なのだろう。

 

 

 

 【前編】では題に掲げた「西洋人の孤独」について全く触れられなかった。

 【後編】では、今回の内容を踏まえて、『闘争領域の拡大』の主人公の「観察者の立場」がどのような仕組みによって、第三部における孤独と破滅に繋がるのか、書けるだけ書いてみようと思う。

 自分が考えたなかでは、主人公の憂鬱と破滅の原因は「観察者の立場」だと思うのだ。

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

雑記12:就活における面接の愉しみ方

 

 

 Twitterで就活辛い芸を続けているが、実のところそんなに苦しんではいない。

 いや、やっぱ辛いけど。

 まあそれでも三か月近く就活やっているとかなり慣れてきて、自分がどう振る舞えばいいのか、身のこなし方もわかってきた。

 就活辛い芸ばかりやっていると、後輩たちが怖気づいてしまうんじゃないかと心配なので、就活の楽しい側面についてちょっと書いてみたい。*1

 

就活の楽しい側面

 

 就活は、自分の将来に関係しなければ、楽しいことも多いと思っている。

 毎日が社会科見学のようなものなのだ。

 自分は小学生のころ、社会科見学を何週間も前から楽しみにしていた。

 就活を社会科見学のようなもの考えると、少し気が楽になるんじゃないだろうか。

 

 そんな就活の中でも特に楽しいのは、面談と面接だと思っている。

 

面談の楽しさ

 

 就活をしていると、リクルーター面談といって、人事ではない先輩社員から色々と話を聞くことのできる機会がある。もちろん、このリク面も選考に関わっているのだが、仕事の話をざっくばらんに聞くことができて、なかなか面白い。

 これは新卒のメリットだと思うが、働いている人の話を1時間あれこれ聞いても良い機会なんて、なかなかない。今までの人生で関わることの少なかった人からじっくり話を聞ける。これは就活の楽しいところだと思う。

 

面接の楽しさ

 

 「自分語り」というものは普段の日常生活ではとんでもなく嫌われるものだが、面接では積極的に「自分語り」をしていい場である。これは悪くない。

 親切な面接官であれば、その「自分語り」についてさらにアレコレ詳しく聞いてくれるのだ。

 そんなことは面接の場でなければありえないだろう。

 サークルの飲み会で「俺が学生時代頑張ったことは~」などと話そうものなら一瞬で後輩から嫌われ、以降飲み会には一切誘われなくなるだろう。

 「自分語り」を進んでしなくてはならないというのは慣れていなければしんどいだろうが、慣れてしまえば気持ちいいものでもあると思う。*2

 面接では「あ、この人は自分のことに興味を持ってくれてる!」と勘違い出来て、気持ちよくなれるのである。

 自分が所属しているオタク・サークルでは「他人にあまり興味のないオタク」が多いため、自分のことについて聞かれることはそれほどない。例えば、「連休何してた?」と聞いたりしても、その後で「おまえはどうだったん?」と聞き返されることがほぼないのだ。"And you?"系の質問がほぼ発生しない空間で生きてきたのである。対して面接では、面接官が、少なくとも表面上は自分のことに興味を持っているフウに話しかけてくれる。

 オタク・サークルの人との気易くて楽しい会話に比べたら、面接での会話での価値なんか無に等しいが、それでもオタク会話ではあまり発生しない楽しさを見つけることもできるのだ。

 

 あとは、この記事でもちょっと書いたように、「こんな質問が来たらどう返してやろうか」とあれこれ妄想するのも、そこそこ楽しい。

 
近況

 

 そんな感じで就活を苦しんだり楽しんだり苦しんだり苦しんだりしていたら、先日、やっとこさ第一志望群から内々定も出た。

 残業がほとんどなく、待遇もそこそこ良くて、会社の将来性も十分と、ほとんど文句のつけようが無いところだと思う。

 これに関しては、運がよかったとしか言いようがない。

 まだもう少し就活は続けるが、終盤戦というか、ほとんどボーナスステージみたいなものだろう。

 後ほんのちょっとだけ頑張ろうと思う。

 

 

 

 

*1:まあ基本は辛いし面倒くさいんだけど、楽しいこともちょっとはあるよ、ということ

*2:「自分語り」をして気持ちよくなるには、自分に自信がなくてはならないと思う。だからこそ、自分に自信がない就活生にとっては、面接官の前で「自分が学生時代に力を入れたこと」などを話すのが苦痛で仕方がないと思う。しかし、自信なんてものは根拠がないものだし、「自分語り」は話す価値があるものだと暗示をかけて思いこんでしまえばいいのである。講演会の質疑応答コーナーで「自分語り」をするオッサンを何人も見てきたが、話す内容は大したことないのに、みんな自信満々である。それは、そのオッサンたちが根拠のない自信を身につけているからだと思う。根拠のない自信の付け方は簡単で、鏡の前で「俺はでっきる」と二十回ほど唱えればいい。端から見たらヤバイ奴だが、これが怖いほど効くのだ。あんまりやりすぎて「自分語り」オジサンにならないよう気をつけなくてはならない。

「ドキドキ文芸部」直訳のダサさ:DDLCと翻訳の問題

 

 久しぶりに『Doki Doki Literature Club!』の話。

 

 前回書いたのは、日本語化パッチが出るか出ないかくらいのときに書いた紹介+ネタバレ感想記事。

sawaqo11.hatenablog.com

 今回は、ちょっとだけDDLCの翻訳について愚痴を書こうかと思う。

 

 自分は英語のままプレイしたので、ローカライズ版についてはあまりわからないのだが、実況動画をいくつかチラ見した感じでは、非常にレベルの高い洗練された翻訳だと感じた。

 

 問題なのは、ユーザー側で流通している「ドキドキ文芸部」という直訳。

 これがダサい。

 翻訳サイドがタイトルを翻訳せず、また元のタイトル『Doki Doki Literature Club!』が長かったせいで「ドキドキ文芸部」と呼ばれるようになってしまったのだろうが、ダサすぎる直訳なので文句を言いたい。

 

 ダサい理由は、英語の「Doki Doki」 ≠ 日本語の「ドキドキ」 だからだろう。

 つまり、英語ネイティブが「Doki Doki」から受け取るイメージと、日本語ネイティブが「ドキドキ」から受け取るイメージは全く違うものなのだ。

 日本語ネイティブなら「ドキドキ」から直ぐに心臓の鼓動の擬音というイメージが出てくるが、英語ネイティブは「Doki Doki」という語を聞いたことが無い人が大半だろう。聞いたことがあっても、そのイメージはマンガやアニメ、ギャルゲーなど日本のサブカルチャーと結びついたイメージであるはずだ。

 対して日本語の「ドキドキ」は明治~大正時代にはもう普通に使われていた、、それなりに歴史のある言葉だ。

 このように「Doki Doki」と「ドキドキ」では全然違うのに直訳してしまった結果、「ドキドキ文芸部」というダサい翻訳が産まれてしまったのだ。

 「ドキドキ文芸部」では、ライトなサブカルチャー的文脈の衣をまとってる感が全然出ていない、もっさりした訳になっていると思う。ていうか「ドキドキ文芸部」ってゲームのタイトルとしてすげえつまらなそうだ。

 

 だから、「ドキドキ文芸部」と訳さずに正式名で言うか、DDLCと略してほしい。

 

 自分の翻訳力もカスみたいなものだが、自分がもし、『Doki Doki Literature Club!』のタイトルを翻訳するとしたら『Doki Doki! ぼくらの文芸部』とかだろうか。

 あるいは日本のライトなサブカルチャーでコーティングされている感じを強調するために

 『俺の入った文芸部の女子たちが美人すぎる件』

 『オタクな男子高校生の俺が美少女だらけの文芸部に入ったら大変なことになったんだが』

 とかにしてしまっても良いかもしれない。

 とにかく、一見ライトなハーレム系のギャルゲ、という雰囲気にしたいのだ。こういう軽~いタイトルの方が、中盤以降のどんでん返しが効果的になるのは間違いないと思う。

 

 いずれにせよ、英語圏の「Doki Doki」のニュアンスをそのまま汲み取った日本語は存在しないので、完璧な翻訳は存在しないだろう。

 何か良い翻訳案が思いついた方がいたら、参考にしたいのでコメントで教えて頂けたら嬉しいです。

 

 

 これは余談だが、翻訳の上で、日本語が英語圏の外来語になっている場合は注意がいると思う。

 例えば、英語ネイティブが「Banzai」から受けるイメージと、日本語ネイティブが「万歳」から受けるイメージはまるで違う。

 こういうイメージGoogleで画像検索するとわかりやすい。

 「万歳」の画像検索結果はこんな感じ→

https://www.google.com/search?q=%E4%B8%87%E6%AD%B3&tbm=isch

だが、

banzai」だとこんな感じ→

https://www.google.com/search?tbm=isch&sa=1&ei=hJHtWth-gfzyBcWAo9AO&q=banzai&oq=banzai&gs_l=img.3..35i39k1j0i4k1l9.39956.42738.0.43000.13.9.0.0.0.0.612.864.1j1j5-1.3.0....0...1c.1.64.img..10.3.864.0..0.0.J6gx-BjaDfI

である。

 つまり、日本語ネイティブにとっての「万歳」は喜んだときや何かに勝ったときに出る一般的な動作であるのに対して、日本語ネイティブでない人にとっては国粋主義右翼日本軍太平洋戦争のイメージと分かちがたく結びついているのだ。

 趣味で翻訳する際にも、こういう言葉のイメージには敏感になっていかないといけないなあと思っている。

 

 

 さらにDDLCの翻訳についてネタバレありの追記なのだが、

 『Doki Doki Literature Club!』の登場人物の名前から非日本ネイティブが受けるニュアンスは、翻訳に反映できない面白さがあると思う。

 

 何が言いたいかというと、「モニカ」のリアリティレベルが英語圏と非英語圏で違うと思うのだ。

 DDLCでモニカは他のヒロインとは違い唯一自由意志を持つ存在だったが、この「モニカ」の名前に違和感を覚えた人は多いだろう。

 ナツキ、サヨリ、ユリの3人は日本人にありそうな名前、もっと言うと日本のラノベやギャルゲーなどのオタク文脈で目にしがちな名前なのだ。

 対して、モニカは、アウグスティヌスの母である聖モニカに由来する、キリスト教圏においては伝統的な名前だ。*1

 つまり、モニカだけが現実に近いところにいる存在ということを、名前からも示している。対して、ナツキたちは、日本的なオタク文化の中にしか存在しないような、虚構の存在であることを示す名前になっている。

 このように、英語ネイティブがプレイしたときは、モニカの名前は作品の伏線として機能するが、日本語ネイティブだと「モニカ」だけ耳に馴染みのないヨーロッパの名前であるため、単なる違和感にしかならない。

 このあたりも翻訳の限界性を感じるところで、自分だったらどう解決すべきかと考えても、うまい結論が出ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ただし、ふつうスペルはMonicaなんだけど

『レディ・プレイヤー 1』での「現実」と「仮想現実」

 

 『レディ・プレイヤー 1』がすごく楽しい映画だった。

 サブカルチャー・オタクカルチャーネタのエモが雪崩のように襲ってきて、中盤からずっとオイオイ泣いていた。

 

 ただ、ラストについては違和感があった。

 そこで、その違和感を中心に、ネタバレありで色々と書き残しておきたい。

 

『レディ・プレイヤー 1』

 

 『レディ・プレイヤー 1』は仮想現実空間〈オアシス〉を舞台に、ヴァーチャル・リアリティにおける冒険と恋を描いた、スティーヴン・スピルバーグのSF映画。

 

あらすじ

 2045年、〈オアシス〉創始者のジェームズ・ハリデーが死んだ。彼は死ぬ間際に遺言を残していた。
 「3つの鍵」を探し出し、「イースター・エッグ」を手にした者には〈オアシス〉の運営権と5000億ドルの遺産を与れる、と。
 この鍵を探し出すため、〈オアシス〉のユーザーたちは鍵を探すゲームに熱中していた。

 主人公ウェイド・ワッツ(パーシヴァル)も、このゲームに参入する。

 果たしてウェイドは、〈オアシス〉の手中に収めようとするIOI社を出し抜いて「オースター・エッグ」を手に入れることができるのか。

 

 

 〈オアシス〉=『サマー・ウォーズ』の〈オズ〉のような空間

 「イースター・エッグ」=『ONE PIECE』で海賊王ゴールド・ロジャーが遺した「ひとつなぎの大秘宝」

 と捉えるとわかりやすい。

 

 

「現実」と「仮想現実」の対比

 

 『レディ・プレイヤー 1』の冒頭では、明らかに、「現実」は辛く冴えない世界として描かれている。

 物語は、主人公のウェイド・ワッツの冴えない顔から始まる。なんとも退屈したような、全てがつまらないといった表情。ナードっぽい眼鏡と服。

 そんなウェイドが住む、ガラクタだらけの汚いスラム街の集合住宅が映し出される。

 さらに、主人公を養っている叔母は、ヒモ男のせいで貧困から抜け出せずにいる。

 描写としては表面的で、いかにもテンプレート的などん底だ。

 

 対して、「仮想現実」である〈オアシス〉は、人々の想像の翼が羽ばたく理想郷として描かれる。

 人間のあらゆる想像が「現実」になる世界。

 現実世界では貧乏で冴えない主人公も、〈オアシス〉ではイケメンのアバターを身にまとい、仲間とともにお金を稼ぐこともできる。

 主人公だけじゃない。世界中の人々が〈オアシス〉に夢中だ。〈オアシス〉でアバターが死んで「リセット」されると、自殺を試みる人がいるほどに。

 

 つまり、作品冒頭では

 

 〈オアシス〉 > 現実世界

 「仮想現実」 > 「現実」

 

 なのだ。

 

 それを象徴するのが、主人公パーシヴァルとアルテミスが、〈オアシス〉でダンスをするシーンだろう。

 アバター同士の二人が、空中で手を取り合い、現実の物理法則から解放されて踊るシーンは、本作の中で一番ロマンティックだと思う。

 どん底の「現実」を生きるだけでは決して出逢えなかった二人が、「現実」では決してできないロマンスをするのだ。

 

 

 しかし、このシーンを境にして 「仮想現実」 > 「現実」 の価値観は逆転する。

 アルテミスは、ダンスの最中に「現実で無いデートは虚しい」と口にする。そして、その直後にIOI社の軍隊がダンスフロアに押し寄せる。

 辛くも軍勢から逃れる二人だったが、パーシヴァルはアルテミスから「あなたは現実を見ようとしていない」となじられてしまう。

 

 ここから、物語の価値観は

 

 〈オアシス〉 < 現実世界

 「仮想現実」 < 「現実」

 

 へと変化する。

 

 主人公たちの目的は、イースター・エッグ」を手にすることからイースター・エッグ」を手にすることで現実世界を変えることになる。

 つまり、〈オアシス〉は理想郷から、「どん底」を終わらせるためのツールになるのだ。

 

  

ラストの違和感

 

 結論から言ってしまうと、現実至上主義に陥ったラストシーンは、ちょっと説得力がないように思えてしまうのだ。

 現実至上主義と映像が矛盾しているように思えてならないのである。

 

現実至上主義

 本作の現実至上主義は「美味しいと感じることができるのは現実世界だけ」、“Reality is the only thing, that's real.”といった言葉に代表される。

 しかし、その現実至上主義は、本当に作中で説得力を持つものだろうか。

 

 ラストに近づくにつれ、この映画は「仮想現実」の世界を、どこか「現実」から切り離された別世界として描写しているようなところがある。

 例えば、主人公ウェイドが最後に〈オアシス〉を週休2日制にするところ。これは「ゲームは一日1時間」的な発想で、〈オアシス〉内で経済が動き人々が生活し続けている実情を度外視している。週休2日制などできるわけないのだ。〈オアシス〉は現実世界と分かちがたく組み合わさっている。

 例えば、僕たちが今、インターネット世界を舞台にした60年代SFを読んだとして、その中で主人公が「全世界インターネット週休2日制!」を宣言していたとしたら、みんな一笑に付すだろう。

 望む望まざるとにかかわらず、インターネットは我々の世界とは切っても切り離せないものになってしまった。同じように、仮想現実が我々の日常に組み込まれたとき、それは現実とは切っても切り離せないほど「現実」を侵食しているに違いない。

 世界経済と密接に結びつき、人々の実存にまで深く関わる〈オアシス〉を描きながら、ゲームでしかないようなもの、現実と切り離すことが可能なものとして描いているのは矛盾だろう。

 

現実世界の薄さ

 「現実こそリアル」という結論になった本作なのだが、これを支える映像が弱い、というのが最大の弱点だと思う。

 〈オアシス〉は圧倒的に豊かな世界として魅力的に描かれているのに、「現実世界」の描写は映像的にかなり薄いのだ。

 もちろん、スラム街、ドローン、カーチェイスなどの描写は魅力的だったのだが、それらも、〈オアシス〉を見せられた後だと、どうしてもありきたりなギミックに映ってしまうのである。

 そう、〈オアシス〉の映像があまりに気合が入ったものであるがために、本作の現実至上主義が説得力を失っているように思えるのだ。

 「美味しいと感じることができるのは現実世界だけ」と言われても、食事シーンが一度もない本作で、この言葉が説得力を持つとは思えない。「触覚が再現できるスーツが開発されているんだから、味覚が再現できる技術が発明されてもおかしくないんじゃないの?」と思った人もいるんじゃないだろうか。

 

 そして、尺の都合もあるだろうが、『レディ・プレイヤー 1』での「現実世界」は、“いかにも”という感じの典型的な設定に満ちている。

 「現実世界」が〈オアシス〉の世界よりもウソっぽくなってしまっているように思えるのだ。

 典型的オタク風の見た目をした主人公、ガラクタだらけのスラム、ヒステリックな叔母とヒモ男、ヒロインの痣、主人公の仲間たちが被差別の対象である黒人とアジア人であること、ザ・悪役という感じのIOI社長。

 これら「現実世界」を彩るキャラ・アイテムの内面が深堀りされないままなので、どうしても作中の「現実世界」はフィクション臭さを帯びる。

 

 要約すると、映像的にはずっと 〈オアシス〉 > 現実世界 なのに、物語の価値観は途中からいきなり 〈オアシス〉 < 現実世界 になるのだ。

 つまり、“Reality is the only thing, that's real.”の根拠は作中にはほとんどなく、観客自身がいる本当の「現実世界」にしかない。

 これが本作最大の弱点だと考えている。

 

 ラストシーンでの、ウェイドとサマンサが天井からぶら下がったヒモを利用してキスをするシーンよりも、〈オアシス〉内でパーシヴァルとアルテミスが重力に縛られずに踊ったシーンの方が、よっぽどロマンチックで見ごたえがあったと思う。

 

 

 

 

雑記11:「あなたを動物に例えると」と聞かれたくて仕方ない

 

近況

 先日、1社から限りなく内定に近い何かを頂いたので、来年路頭に迷うことはなさそう。

 ただ、そんなに志望度の高くない企業なので、まだまだ就活は続くし、精神的にもそんなに余裕ができたわけではない感じ。

 ノースキルドブ文系大学院生は、就活市場において人権を保障されていないので、動き続けるしかない。

 

 

「あなたを動物に例えると何ですか?」

 就活で最も有名な質問の一つだろう。

 こんなクソみたいな質問する企業あるのかヨ都市伝説だろ(笑)、と思っていたのだが、実際にされたことがある人を何人も見ているので、実際にされる可能性のある質問なのだ。

 こんなので仕事ができるかどうかなんて分かるわけはないだろうが、性格が社内の雰囲気とマッチするかどうか多角的に見るため、とかアドリブ力を見るためとか、そういう理由なんだろう。有効だとはとても思えないが。

 自分は、あまりこの手の質問をしそうにない企業ばかり受けているので、まだ訊かれた経験はないのだが、準備はバッチリである。

 「学生時代に力を入れたこと」よりも入念に脳内でシュミレーションを行っている。

 

 「ハイ!! 私を動物に例えるとゴリラです!!! なぜなら、強くて優しいからです!!! また、ゴリラはストレスがかかると下痢になってしまうのですが、私もストレスがお腹に来るタイプです。今日も面接でちょっぴり緊張していて、朝からお腹がユルユルですが、ゴリラ顔負けのパワー(ここで力こぶをつくる)で一生懸命がんばろうと思います!!!」

 

 完璧な回答である。

 自分の強みをしっかりと伝えながら、弱みは豆知識とギャグを交えて面接官がツッコみやすいように工夫している。

 早く「あなたを動物に例えると何ですか?」と訊かれたいと日々ウズウズしながら面接を受けている。

 

 

 まあ、それは冗談だが、アホな質問にはウケ狙いで返すのは一つの手だと思う。

 ただ、大学のイベントで話す機会のあった、某大手出版社で働くOBは、ある企業で「あなたを動物に例えると?」と訊かれて、「すばしっこくないネコ」と答えた結果落ちたらしいが。

 

 この質問に対する解答で、今まで聞いた中で一番強烈なのは、岸本佐知子のエッセイ集『ねにもつタイプ』に出てきたものだろう。

 岸本佐知子自身、訊かれたことはないらしいのだが、もし訊かれたら

 「ゴンズイ玉の中の方にいるやつ」と答える用意があるらしい。

 ゴンズイのなかでも「中の方で、何もわからず、何も見えず、大して前にも後ろにも進まず、ただ右を向いたり左を向いたりして一生を終わるようなのもいる。それが私だ。」

 とのこと。

 岸本風に自分を動物に例えると何なのか考えながらする就活は、ちょっとだけ楽しい。

 

 

目を見て話すこと

 どうやら自分は、あまり人の目を見て話せていなかったらしい。

 

 先日、リクルーター面談があったのだが、その際リクルーターの方から面接のアドバイスとして、「もっと目を見て話したほうがいいよ」という言葉を頂いた。

 個人的にはなるべく目を見て話していたように思っていたので、ちょっと意外だった。

 そうか、世の大人たちは自分よりもずっと相手の目を見て話しているのだな、と言われたそのときは思ったのだが、そのリクルーターの方が最後に気になることを言っていた。

 

 「話を真剣に聞いてくれてるのは伝わったけど、目線がちょっと下に行きがちだったから」と。

 

 思い返すに、これには思い当たるフシがある。

 

 「目を見て話しなさい」と初めて言われた記憶は、小学校3年生のときに遡る。

 当時の先生に「先生が話しているときは、先生の目を見るようにしてください」と言われた。

 そしてその際に、「だけど、ずっと人の目を見ていると怖くなってくることもあるから、目を見るのが辛くなったときは話している人の鼻を見るようにしてください」とも言っていたのだ

 素直な子供だった自分は、「そうか、人と話すときはその人の鼻を見て喋ればいいのだな」と思いった。

 その教えを15年以上守ってきたようなのだ。

 

 そう。自分は人と話すとき、かなり相手の鼻を見ている。

 だから、「視線が下に行きがち」と言われたのだ。

 しかし、小学校の先生のアドバイスは、先生の話を聞くときのアドバイスだ。

 つまり、発話者とある程度の距離があるときにしか使えないテクニックだったのだ。

 自分はこのことに気が付くまで15年かかった。

 小学校を過ぎて、他人から「目を見て話せ」と言われることなんて無かったので、今まで気が付かなかったのだ。

 

 しかし、やはり人の目を見て話し続けるというのは、かなり疲れるものでもある。

 「目」の持つ情報量が多すぎる。

 「目は口ほどに物を言う」とはよく言ったもので、人の目をずっと見続けていると、相手が話している内容と「目」からの情報がごっちゃになって混乱してくる。

 目を見ながら話すためには、脳は異なる情報を同時に処理しなければならないのだ。

 

 その上、会話のマナーとして「相手の目を見すぎるのも失礼」と言われている。

 ずっと目を見すぎてても、メンチを切っているような、相手に威圧感を与えることになってしまうのだ。ふとした瞬間に手元などに目をやる必要がある。

 そして、この時も、窓の外なんかには目を向けてはいけない。話に集中してないと思われてしまうからだ。

 

 つまり、「相手の目を見ながら会話をする」には、「相手の目から発信される情報を処理しつつ会話の内容を理解し、その上で適切なタイミングで視線を不自然でない位置へ適宜ずらす」必要があるのだ。

 なんとも高度な技術だ。

 会話の最中にこんなことを意識しては、会話は全く成り立たなくなってしまうだろう。

 日頃の会話で練習して、意識しないでもできるようにならなくてはならない。

 自分は割と器用な方なので、すぐに修正して、面接官の目を見て自信満々なフリをしながら話すことができるようになった。だが、こんな複雑な動作の組み合わせ、できない人もふつうにいるだろう。

 

 しかし、これほどの労力をかけてまで、「目を見て話す」必要性が、本当にあるのだろうか。

 個人的には、相手の目を見てハキハキ喋る人間より、伏目がちでポツポツと呟くように語りかけてくる人間の方がよほど信用できるのだけど。

 

自分を受け入れるための戦争:『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』レビュー

 

 ありのままの自分を探し、その本当の自分自身を、自分で受け入れてやることは、ほとんど一生がかりの闘いだと思う。

 受け入れたいはずの自分が、「ふつう」とは違う形をしていれば尚更だ。

 自分が何者であるのか悩み、「ふつう」でない自分の形を持て余して苦しむことになる。

 場合によっては、「ふつう」でない自分が嫌いになり、自罰的になって、自分で自分を差別してしまう。そうして、自分がすり減っていってしまう。

 そんな苦しみを抱えている人は多くいるはずだ。

 

 

 『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』は、「マゾヒズム」の性的嗜好を持つ作者の、エッセイ漫画だ。

 幼い頃から男性に暴力を振るわれたいという強い欲望を持っている作者が、初めて恋に落ちるまでを描いたのが、第1巻の内容になる。

 

実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。(1) (BUNCH COMICS)

実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。(1) (BUNCH COMICS)

 

 

実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。 - pixivコミック | 無料連載マンガ

(ここで3話までは無料で読めます)

 

 

 特筆すべきは、作者のひたむきさだろう。

 頭では暴力を否定し、「変態」である自分を「気持ち悪い」と感じている作者は、それでも自分で自分を受け入れるため、他人からボコられるために動き始めるのだ。

 冒頭で「私ボコられたい! 絶対あきらめない!」と宣言する作者の顔は、とても明るく、希望に満ちている。

 辛く苦しいはずの作者の闘いは、一貫して前向きに描かれている。

 受け入れがたい自己を抱えている人にとっては、とても勇気づけられる漫画だと思う。

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 しかし、作者が受け入れようとして闘った結果、現れてしまった自分自身の「本質」は、作者が当初予想したものよりもはるかに複雑で、暗く、向き合うのに強い痛みを伴うものだった。

 

※※※

 ここから先は、人によってはネタバレに感じる人もいるだろうから、これから真っさらな状態で読みたいと思っている人はブラウザバックした方がいいだろう。

※※※

 

 1巻の後半で立ち現れる作者の「本質」こそが、このエッセイ漫画の核だろう。 

 作中でいろいろあった結果、尻フェチでもある作者は、ペニバンで男性を掘り、処女よりも先に童貞を捨てることになるのだが、このペニバンをきっかけにして、作者は本当の自分を発見してしまう。

 それは、性自認がゲイ男性である自分の発見だったのだ。

 作者はペニスバンドを着けた自分の姿を見て、

  「私 これ めっちゃ似合ってるな!!」

 と思うのだ。

 それは、長年感じていた自分の身体への違和感からの解放だったのだろう。

 そして作者は、自分の「本質」は「マゾヒズム」ではなく、「違和感ある自分の身体を暴力によって否定すること」であると気が付くのだ。

 

ペニスバンドという鍵によって

長らく封印されていた私の自意識の扉が開かれた

簡単に言うとゲイのマゾヒストの男性が

女の肉体を持ってこの世に生まれてきた

おそらくそれが私

(中略)

そして そういう

性的嗜好にしろ

性自認にしろ

そういったズレに端を発する自己嫌悪が

罪状となって積み重なり…

私は私の手で

自分を投獄するに至ったのかもしれない

(中略)

嫌で嫌で仕方ない

肉体

受け入れられない肉体を

暴力で壊す

私は自分の女性性を暴力で壊そうとしているのではないか

 

 想像するだけで胸が締めつけられるような、受け入れるのがとても難しい自己だ。

 これを受け入れるのには、想像を絶するような苦痛があるかもしれない。

 

 しかし、そんな厄介な自己を抱えていた作者が、初めて恋に落ちるのだ。

 二十年以上もがき続けて、やっと好きな人を見つけることができるのである。

 その恋は、作中で言われているように「奇跡」なんだと思う。

 けれど、自分はその「奇跡」は、作者が前向きに行動し続けたからこそ、自分自身と必死に向き合い続けたからこそ得られた「必然」でもあると思っている。

 作者が長い長い闘いの末に得られた、一つの勝利だと思う。

「ふつう」とはかけ離れた恋の形かもしれないが、とても美しい形の恋だと思う。

 

 作者の恋がこれから一体どうなっていくのか、2巻を今から心待ちにしている。

 自分は、自分に向き合い続ける作者を、明るく闘い続ける作者を、そして闘いの末に得られた作者の恋を応援したい。